52.罪・堕落とは人間の改造(4)神の摂理は悪魔族の救済 | 和敬清寂 ~書かぬが仏~

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■罪・堕落とは人間の改造

1 47.罪・堕落とは人間の改造(1)
2 48.罪・堕落とは人間の改造(2)悪魔が自然界の力を悪用
3 49.罪・堕落とは人間の改造(3)人を悪魔化させた動機
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イエス様もパウロも神の民に対する御言と、悪魔族に対するものとを明確に使い分けられていて、神の民も悪魔族も存在しないという立場では語られていない。


旧約聖書は完全にそうであるし、パウロもローマ人への手紙の第一章では悪魔族を「彼ら」と呼んで彼らの悪なる性質や行動を明示し、第二章では神の民ユダヤ人が彼ら悪魔族にならい不信仰に陥っている事への批判を行っている。

「彼ら」とは、パリサイ人ではないのは明らかである。

ローマ人への手紙1章18 「神の怒りは、不義をもって真理をはばもうとする人間のあらゆる不信心と不義とに対して、天から啓示される。なぜなら、神について知りうる事がらは、彼らには明らかであり、神がそれを彼らに明らかにされたのである。神の見えない性質、すなわち、神の永遠の力と神性とは、天地創造このかた、被造物において知られていて、明らかに認められるからである。したがって、彼らには弁解の余地がない。なぜなら、彼らは神を知っていながら、神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからである。彼らは自ら知者と称しながら、愚かになり、不朽の神の栄光を変えて、朽ちる人間や鳥や獣や這うものの像に似せたのである。
ゆえに、神は、彼らが心の欲情にかられ、自分のからだを互にはずかしめて、汚すままに任せられた。彼らは神の真理を変えて虚偽とし、創造者の代りに被造物を拝み、これに仕えたのである。創造者こそ永遠にほむべきものである、アァメン。
それゆえ、神は彼らを恥ずべき情欲に任せられた。すなわち、彼らの中の女は、その自然の関係を不自然なものに代え、男もまた同じように女との自然の関係を捨てて、互にその情欲の炎を燃やし、男は男に対して恥ずべきことをなし、そしてその乱行の当然の報いを、身に受けたのである。
そして、彼らは神を認めることを正しいとしなかったので、神は彼らを正しからぬ思いにわたし、なすべからざる事をなすに任せられた。すなわち、彼らは、あらゆる不義と悪と貪欲と悪意とにあふれ、ねたみと殺意と争いと詐欺と悪念とに満ち、また、ざん言する者、そしる者、神を憎む者、不遜な者、高慢な者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者となり、無知、不誠実、無情、無慈悲な者となっている。彼らは、こうした事を行う者どもが死に価するという神の定めをよく知りながら、自らそれを行うばかりではなく、それを行う者どもを是認さえしている。」



イエス様も悪魔族に対する御言として、

「聖なるものを犬にやるな。ブタに真珠を投げてやるな。」

「あなた方の先祖にアブラハムがいるなどと思っても見るな」

「ヘビの子、まむしの子らよ」

「あなた方は自分の父、すなわち悪魔から出てきた者である。」

「彼等は羊の衣を着てあなた方のところに来るが内側は強欲な狼である」

「毒麦は悪い者の子たちである。それを撒いた敵は悪魔である。」

「左にいる人々にも言うであろう。『のろわれた者どもよ。私を離れて悪魔とその使い達とのために用意されている永遠の火に入ってしまえ。』」




神の民に対しては、ただイエスに従ってついてきただけで、まだ信仰生活を殆ど行ってもおらず、信仰が深まって神霊が清く明るくなってもいない人たちに対して、以下のように語られている。


「あなた方は世の光である」「あなた方は地の塩である」

「柔和な人たち、こころの清い人、義に飢え乾いている人たちはさいわいである。」

「平和を作り出す人たちは、神の子と呼ばれるであろう」


決して彼等に対して、「ヘビの子、まむしの子」とは言われていないのである。



しかも、

ローマ人への手紙第二章二八節 「外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また文字によらず霊による心の割礼こそ割礼である」

ローマ人への手紙第二章一四節 「律法(旧約聖書の御言)を持たない異邦人が、自然のままで、律法の命じる事を行うなら、たとい律法を持たなくても、彼らにとっては自分自身が律法なのである。」


パウロが言いたいのは、「キリスト教徒でなくても、こころが神の願いにかなうのであれば神の民である」という事である。

イエスが「平和を作り出す人たちは神の子と呼ばれるであろう」の平和を作りだす人とは「和のこころ」を持った人々である。

教会に通っているから神の民だというのではなく、和のこころを持った人は「神」という言葉を言わなくとも神をこころに宿した神の民なのである。



だからといって、悪魔族は無条件に滅ぼせと言っているのではない。


イエスが異邦人の女に「私は、イスラエルの失われた羊以外の者には遣わされていない。パンを子犬に投げてやるのは、よろしくない。」と言った時、女が「主よ、子犬も落ちたパンくずは頂きます」と言うと、イエス様は女の信仰を褒めた上で受け入れた話、


マタイ15章21 さて、イエスはそこを出て、ツロとシドンとの地方へ行かれた。すると、そこへ、その地方出のカナンの女が出てきて、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください。娘が悪霊にとりつかれて苦しんでいます」と言って叫びつづけた。しかし、イエスはひと言もお答えにならなかった。そこで弟子たちがみもとにきて願って言った、「この女を追い払ってください。叫びながらついてきていますから」。するとイエスは答えて言われた、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊以外の者には、つかわされていない」。しかし、女は近寄りイエスを拝して言った、「主よ、わたしをお助けください」。イエスは答えて言われた、「子供たちのパンを取って小犬に投げてやるのは、よろしくない」。すると女は言った、「主よ、お言葉どおりです。でも、小犬もその主人の食卓から落ちるパンくずは、いただきます」。そこでイエスは答えて言われた、「女よ、あなたの信仰は見あげたものである。あなたの願いどおりになるように」。その時に、娘はいやされた。

信仰深いローマの百卒長の信仰を褒めて受け入れた話など、

マタイ8章5 「さて、イエスがカペナウムに帰ってこられたとき、ある百卒長がみもとにきて訴えて言った、「主よ、わたしの僕が中風でひどく苦しんで、家に寝ています」。イエスは彼に、「わたしが行ってなおしてあげよう」と言われた。そこで百卒長は答えて言った、「主よ、わたしの屋根の下にあなたをお入れする資格は、わたしにはございません。ただ、お言葉を下さい。そうすれば僕はなおります。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下にも兵卒がいまして、ひとりの者に『行け』と言えば行き、ほかの者に『こい』と言えばきますし、また、僕に『これをせよ』と言えば、してくれるのです」。イエスはこれを聞いて非常に感心され、ついてきた人々に言われた、「よく聞きなさい。イスラエル人の中にも、これほどの信仰を見たことがない。なお、あなたがたに言うが、多くの人が東から西からきて、天国で、アブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席につくが、この国の子らは外のやみに追い出され、そこで泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう」。それからイエスは百卒長に「行け、あなたの信じたとおりになるように」と言われた。すると、ちょうどその時に、僕はいやされた。」



パウロは、「神はユダヤ人だけの神であろうか。・・・・確かに異邦人の神でもある。」と言い、イエスは神の民だけに留まらず悪魔族をも救うために来られた事を強調している。


しかし、パウロは何の条件も無しに悪魔族を神の民と同等には見ていない。


「無割礼の者(異邦人)をも信仰のゆえに義とされるのである。」


言い換えると、たとえ悪魔族であっても、こころを入れ替えて神様の元に返ってくれば、神様はいつでも受け入れるという意味である。


しかし、悔い改めない悪魔族に対しては非常に厳しい言葉を投げかける。


ユダの手紙1章10 「しかし、この人々は自分が知りもしないことをそしり、また、分別のない動物のように、ただ本能的な知識にあやまられて、自らの滅亡を招いている。彼らはわざわいである。彼らはカインの道を行き、利のためにバラムの惑わしに迷い入り、コラのような反逆をして滅んでしまうのである。彼らは、あなたがたの愛餐に加わるが、それを汚し、無遠慮に宴会に同席して、自分の腹を肥やしている。彼らは、いわば、風に吹きまわされる水なき雲、実らない枯れ果てて、抜き捨てられた秋の木、自分の恥をあわにして出す海の荒波、さまよう星である。彼らには、まっくらなやみが永久に用意されている。アダムから七代目にあたるエノクも彼らについて預言して言った、「見よ、主は無数の聖徒たちを率いてこられた。それは、すべての者にさばきを行うためであり、また、不信心な者が、信仰を無視して犯したすべての不信心なしわざと、さらに、不信心な罪人が主にそむいて語ったすべての暴言とを責めるためである」。彼らは不平をならべ、不満を鳴らす者であり、自分の欲のままに生活し、その口は大言を吐き、利のために人にへつらう者である。
愛する者たちよ。わたしたちの主イエス・キリストの使徒たちが予告した言葉を思い出しなさい。彼らはあなたがたにこう言った、「終りの時に、あざける者たちがあらわれて、自分の不信心な欲のままに生活するであろう」。彼らは分派をつくる者、肉に属する者、御霊を持たない者たちである。しかし、愛する者たちよ。あなたがたは、最も神聖な信仰の上に自らを築き上げ、聖霊によって祈り、神の愛の中に自らを保ち、永遠のいのちを目あてとして、わたしたちの主イエス・キリストのあわれみを待ち望みなさい。疑いをいだく人々があれば、彼らをあわれみ、火の中から引き出して救ってやりなさい。また、そのほかの人たちを、おそれの心をもってあわれみなさい。しかし、肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい。



人間を改造した事はルーシェルの罪だが、改造された人間が犯した罪は、人間自身が償わなければならない。

「ルーシェルが悪い」と言ったところで帳消しになるわけではなく、歴史を通じて犯してきた罪の数々はそれぞれの血統者がすべて責任を負わなければならない。


歴史的に数多く罪を犯してきた悪魔族の救いをなすためには、神の民よりも遙かに重い贖罪の条件が必要となるのが現実である。


救いを「原罪」という一言に矮小化して、ある儀式によって「原罪を切り、悪魔の血統から神の血統に戻ってくれば誰でも許される」と単純化することはできないのである。


ある面、原罪よりも遺伝罪のほうが遙かに罪が重いとも言える。


だからこそ、イエス様は悪に対して大変厳しく、決して許されなかった。

甘やかす事は彼らに善の条件を積ませなくさせ、かえって悪魔族の救いの道を閉ざすことになるからであって、「罪を憎んで人を憎まず」ならぬ「罪を憎んで人まで憎んで」というわけではないのである。


神様から見れば、人間はルーシェルの被害者なのだから許してやりたいが、無条件に許してしまうと悪がどんどん繁殖し神の血統が絶えてしまうので、それはできないのである。


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