平治の乱での清盛の戦略
$伊勢型紙 おもしろ源氏物語図典 &ギャラリーあらくさ通信
クリックし拡大してご覧ください。原画は「平治物語絵巻」です。

<font size="2">解説 源平決戦、六条河原
清盛は保元の乱の論功行賞で多くの恩賞をもらった。これが不満で源義朝が挙兵し、二条天皇と後白河上皇を幽閉した。清盛は熊野参詣の途中から急いで帰り、はかりごとで天皇と上皇を仁和寺に脱出させ、義朝追討宣旨を出してもらい、少数の部下で本拠地の六波羅を打って出て、六条河原の戦いで義朝を打ち破った。逃れた義朝は部下の裏切りで非業の最期を遂げ、清盛の武家の棟梁の地位が確実なものになった。

猫式部コメント  
・物騒な世の中に・・・保元の乱(1156)は天皇家・摂関家・武家の親兄弟がそれぞれに敵味方に分かれて骨肉相争うすさまじいものでございました。雅な世界から一転、死刑も3世紀半ぶりに復活したのでございますよ。慈円という偉いお坊様は”この乱から武士の世になった”と嘆いていらっしゃいます。
・藤原信頼の17日天下・・・保元の乱後、後白河上皇の近臣の2人―藤原道憲(信西)と藤原信頼が権勢を争うようになり、ついに藤原信頼は源義朝と組んで行動を起こしました。清盛の熊野参詣の留守をねらい上皇の御所三条殿を急襲し天皇と上皇を幽閉しました。これが平治の乱の始まり、12月9日真夜中12時頃。清盛が急を知って熊野行きの途中から引き返し京へ着いたのが12月17日。この間信頼は自ら大臣になり天皇親政を図りましたが、悲しいかな智慧も力もなく人心は離れていくばかり。そして12月26日辰の刻(午前8時頃)、大内裏に拠る信頼・源氏の軍勢を平氏の軍勢が攻撃開始しました。
・一枚上の清盛の軍略とは・・・平氏の将兵は負けたと見せかけて退却を行い六波羅へ逃げ、敵をおびき寄せて平氏に有利な六条河原の決戦へ持ち込みました。昼過ぎには源氏は敗退しました。
それ以前12月24日に清盛は信頼に名簿(みょうぶ)といわれる文書を届けさせて、私は貴方に従いますなんて言って油断をさせていたのですねえ。かけひきでも信頼は負けていました。
高下駄、黒馬の目立つ姿
$伊勢型紙 おもしろ源氏物語図典 &ギャラリーあらくさ通信
クリックし拡大してご覧下さい。
解説
清盛は青年時代、藤原家成という公家の従者をつよめ、高下駄を履き黒い馬に乗って警護や使いに忙しく走り回った。その姿を京童は「深墨の高平太」とはやし立てうわさした。深墨とは黒い馬、高平太の高は高下駄である。清盛は古い権威や迷信にとらわれない進取の気性に富んだ青年武士だった。新しい時代の到来を予感した人々は、その活躍ぶりを凍巻きにながめ、期待と応援の気持ちと多少の妬みから「深墨の高平太」と呼んだのだろう。

猫式部のコメント
●無頼か上品か・・・この絵の清盛と大河ドラマの松ケン・清盛とはずいぶんイメージが違いますね。ドラマに兵庫県の知事さんが「画面が汚い」とクレームをつけたそうですが、‘無頼‘といわれた少年時代のリアリティは感じますね。
でも清盛は少年・青年時代驚くほど異例の出世をしているのでございますよ。
・7歳(今の小学2年生)―伊勢神宮に奉仕する斎宮の身体を清める儀式のお供の行列に、白河院の馬に乗って参列
・12歳―従五位下  左兵衛左(さひょうえのすけ 宮廷を守る武官)に。これは主に上流貴族の子弟任命されるもので大変な名誉だそうです。
・14歳ー従五位上(貴族社会の仲間入り)
・18歳ー従四位下(父の譲り)
・19歳ー中務大輔
・20歳ー肥後守(受領の仲間入り)
・29歳ー正四位下  これは武家出身者としては異例の出世です。
     安芸守
どうです。すごいでしょう。若くしてこれだけの役職、地位ですもの。しかるべき場面では服装も態度もちゃんとなさったのではないでしょうか。
ふたたび中井貴一・忠盛さまのこと・・・清盛が異例の出世をした理由に「白河院のご落胤説」がございます。諸説があって、ご落胤を否定する人もあります。確かなことは祖父正盛、父忠盛が富を蓄え功績をあげ勢力を拡大した背景があったことでございましょう。
さてその忠盛役の中井貴一さま。先回も申し上げましたが、渋くて懐が広くて人間味あるすてきな忠盛像ですわ。
わたくしのように年を取っておりますと、ついお父様の佐田啓二さまを思い出しますの。佐田啓二さまはとても有名な甘い二枚目スターで、女性の憧れの的でしたの。とくに映画「君の名は」は忘れられません。中井貴一さまはお父様とはまた違ったご自分の道を切り開いていらっしゃいますね。