荒木村重 | 荒木村重研究会ブログ

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荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
例会 、歴史探訪 、講演会、 勉強会 、イベント 、 会報『村重』の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

1.長篠の戦い(1575年・天正3年)

武田勝頼は徳川方の長篠城を攻撃しました。これに対し、徳川家康の要請を受けた織田信長が援軍を率いて出陣し、長篠設楽原で決戦となりました。


織田軍は馬防柵を築き、銃数だけでなく、大量の弾薬と火薬を使って鉄砲を効果的に運用しました。

一方、武田軍も鉄砲を使用していましたが、弾薬と火薬は輸入品であり、信長によって経済封鎖されていたため早い段階で弾切れとなってしまいました。そのうえ織田軍の途切れることのない射撃に圧倒されて武田軍は敗北しました(歴史学者・平山優氏の指摘による)。



しかし、長篠合戦後も武田勝頼は領国を維持しており、この敗戦のみで直ちに武田家が滅亡へ向かったわけではありません。





2.天正4年(1576年)、信長を追い詰める「第三次信長包囲網」が完成

将軍足利義昭の要請に基づき、上杉と武田は和睦し、武田と北条は同盟を強化し(北条氏政の妹の桂林院殿の勝頼への輿入れ)、上杉、武田、毛利、本願寺は、強固な信長包囲網を形成し、東西から信長を挟み撃ちにしようとしていました。

なお、この時期も上杉氏と北条氏は、関東・越後方面で戦闘を続けていました。


3.御館の乱(おたてのらん)

天正6年(1578年)3月13日、上杉謙信が死去すると、

 * 上杉景勝(謙信の養子)

 * 上杉景虎(北条氏政の弟・謙信の養子)

との間で後継者争いが始まりました。

当初、北条氏政の要請を受けた武田勝頼は上杉景虎支援に動いていましたが、対立候補の上杉景勝が勝頼に巨額の金と領地を提示したことで、武田と景勝の間で「甲越同盟」が成立しました。

これにより武田勝頼は最終的に景勝を支持・加勢することとなり、景虎は強力な後ろ盾を失いました。天正7年(1579年)3月17日、景虎が籠もる本拠「御館」が景勝軍の猛攻により落城。景虎は実家の小田原へ逃れる途中、鮫ヶ尾城(現・新潟県妙高市)に立ち寄りましたが、城主・堀江宗親がすでに景勝側に寝返っており退路を断たれ、天正7年3月24日、景虎は敗北して自害しました。景虎を支援していた北条氏政は猛反発し、武田・北条同盟(甲相同盟)は急速に悪化・崩壊しました。




4.武田・北条同盟の崩壊と信長包囲網の瓦解

御館の乱によって武田と北条の同盟が崩壊したことで、背後の安全を失った武田家は北条氏との戦いに兵力を割かざるを得なくなり、上杉家も内乱(御館の乱)による国力低下で外交的影響力を大きく失いました。

さらに北条氏政が織田・徳川側へ接近したため、武田家は逆に東西から挟み撃ちにされる窮地に陥ります。この結果、天正4年に形成された東国を中心とする信長包囲網は事実上瓦解し、東方から信長へ圧力をかける体制は完全に失われました。



5.荒木村重への影響

包囲網の瓦解と東国の沈静化は、天正6年秋に織田政権へ反旗を翻した荒木摂津守村重の運命を大きく左右しました。

東方の武田・上杉勢力による脅威が後退したことで、織田信長は畿内および摂津方面へ戦力を集中することが可能となりました。

村重は毛利氏や本願寺との連携による長期戦を想定していましたが、信長による徹底的な摂津各地への攻勢を受け、毛利方からの援軍も来ず期待できないまま追い詰められていったのです。



参考  

「鉛の研究」で見えた長篠合戦の新事実

https://rekishikaido.php.co.jp/detail/8874


丸島和洋氏の著書『武田勝頼 試される戦国大名の「器量」』(平凡社、2017年刊行)に収録されている図(所収図)


https://ike-katsu.blogspot.com/2026/07/blog-post.html


荒木村重の重臣でもあった摂津国人北河原氏(与作)について考える


昔村重研究会会員だった柏床宜宏氏のホームページです。

https://ike-katsu.blogspot.com/2026/07/blog-post.html?m=1