荒木村重をめぐる旅 ― 歴史の中の真実とロマン | 荒木村重研究会

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村研スタッフの手作りブログ

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
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戦国武将 荒木村重について改めてまとめてみました。村重という人物は非常に個性的で、小説やインターネット上では誇張されたイメージも少なくありません。しかし、信頼できる史料を紡いでいくと、新たな人物像が浮かび上がり、その人間関係や時代特有の事情が見えてきます。こうした気付きは、歴史勉強の醍醐味かもしれません。


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村重像の再発見 ― 信長視点からの脱却


荒木村重についての史料は意外と少なく、残されているものの多くは織田信長側の視点で書かれたものです。勝者の記録に頼らざるを得なかった過去があるため、彼の真の姿は長らく曖昧なままでした。


しかし近年、新たな史料の発見や研究が進んだことで、事実関係が整理されつつあります。その中でも注目したいのが、天理大学の天野忠幸教授による研究です。教授の著書は学術的でありながら非常にわかりやすく、村重像の再構築に大いに役立ちます。図書館でも借りられるので、興味のある方はぜひ手に取ってみてください。


※ 後記参照


有岡城と城下町の暮らし


村重が籠城した有岡城は、「惣構え」と呼ばれる日本初の本格的な城下町としても知られています。そこには侍だけでなく、町人や商人たちも暮らしており、城の周辺では農業も行われていたと考えられています。


籠城中の物資調達は地元でもある程度可能だったものの、長期間の籠城を支えたのは、遠く毛利家からの兵士や武器、食料などの支援でした。意外かもしれませんが、当時の海運は非常に発達しており、物資は尼崎を経由して、猪名川を通じて有岡城の裏手まで運ばれていたのです。


尼崎城の重要性と村重の決断


物流の要であった尼崎城は、村重の息子・村次が城主を務めていました。その重要性から、村重が有岡城を離れたのは、形成不利に陥っていた尼崎城を立て直すためだったというのが、近年の研究で定説となりつつあります。


しかし、その間に有岡城は落城し、村重と村次らは毛利のもとへ逃れます。逃走経路としては、海運を活用し、尾道までたどり着いたと推測されています。


村重のその後と、意外な子孫たち


村重はその後、「道勲(どうくん)」と名を改めて茶人として大坂に戻り、豊臣秀吉に仕えるようになります。


また、彼の子・又兵衛(荒木又兵衛)は、浮世絵の創始者の一人として知られ、現在では国宝級の作品を残すなど、その芸術的才能で歴史に名を刻んでいます。


村重という人物を通して、戦国時代の複雑な政治・物流・文化が立体的に見えてきます。今後も学びを深めながら、その魅力を発信していきたいと思います。


荒木村重研究会では、荒木村重を中心に戦国時代の勉強会や研究発表、関連イベントを実施、例会での情報交換、交流会を通して親睦もはかっています。

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天野忠幸教授

単著

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