戦国時代から江戸時代への移行を「ノン・ゼロサム」の視点で考えた Gou | 荒木村重研究会

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荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
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日本の戦国時代から江戸時代にかけての歴史を「ノン・ゼロサム(Non-zero sum)」の視点から振り返ると、「競争と協力」「対立と共存」が絶妙に絡み合いながら、最終的に江戸時代という統一社会へ収束していった過程が見えてきます。


ノン・ゼロサムとは?


「ノン・ゼロサム」とは、全体の利益や損失がゼロに限定されない構造を指します。

つまり、一方の利益が他方の損失になるとは限らず、双方が利益を得る「共存共栄」も可能な関係です。


これに対し「ゼロサム」は、勝者の得がそのまま敗者の損になる、固定されたパイの奪い合いの構図です。



江戸時代は、「封建制」というゼロサム的・階層的枠組みの中にありながらも、戦国時代と比べて対立を抑え、協調・安定・相互依存を制度化したノン・ゼロサム社会としての側面を色濃く持っていた時代です。つまり、ゼロサム構造の中で、いかにノン・ゼロサムの知恵を埋め込んだかが江戸幕府の持続性の鍵だったと言えます。


戦国時代:ゼロサムとノン・ゼロサムの交錯


戦国時代は一見、典型的なゼロサムの時代でした。大名同士が領土や権力を奪い合い、勝者が領地を広げ、敗者は滅びるという構図が続きました。


しかし一方で、戦国大名たちは単なる武力の競争ではなく、同盟、婚姻、商業振興などを通じて、相互利益を模索していました。

織田信長は、楽市楽座や南蛮貿易を通じて商業を活性化させ、敵対勢力であっても経済的利益を共有する道を模索。

豊臣秀吉は、農民や商人の地位を安定させ、内乱の抑止と経済の再分配を促進。

徳川家康は、敵対してきた大名たちを「外様大名」として取り込み、戦を終わらせる一方で、各藩の経済的自立と連携を重視しました。


こうした動きは、戦を経済や対話によって収束させ、社会全体の安定を目指すノン・ゼロサム的な方向性を備えていたといえるでしょう。


荒木村重という存在

この時代のなかで、荒木村重という武将の姿が浮かび上がります。村重は、織田信長の家臣として頭角を現しましたが、のちに信長に反旗を翻した人物として知られます。まだ一部には「裏切り者」との記載が見られますが、その行動の背景には、命を奪う戦ではなく、対話と交渉による調整を重んじる思想がありました。


彼は安易な全面戦争ではなく、命を守るための手段を模索した武将でもありました。信長のような力による統一の思想と、村重のように人の命や地域の安定を重視する立場は、当時の価値観のぶつかり合いでもありました。村重の行動は時代に先んじすぎたのかもしれませんが、まさにノン・ゼロサム的な発想を内に秘めた人物だったといえるでしょう。



江戸時代:ノン・ゼロサム社会の構築


江戸時代になると、徳川幕府は武力衝突を封じ、全国を260余の藩に分け、それぞれに自治を与えることで安定的な共存構造を築きました。例えば参勤交代は大名の力を抑えると同時に、江戸と地方を結ぶ経済循環を生み出しました。身分制度の固定化は社会の硬直性を招きましたが、同時に階層ごとの役割分担による秩序と共生を目指しました。百姓や町人も地域共同体の中で自治を行い、文化と経済の発展に寄与しました。江戸時代は、「対立の抑制」と「協調の制度化」によって、ノン・ゼロサム的な社会を250年以上持続させたと評価できます。


荒木村重という一人の武将が持っていた命や対話を重んじる思想は、信長が意気揚々とする戦国時代では、受け入れられにくかったかもしれません。けれども、時代が進むにつれて、一方的な勝利よりも共存と協力を前提とした秩序が社会を支える柱となっていきました。


歴史をノン・ゼロサムの視点で見ることで、勝者と敗者だけでは語れない、より複雑で豊かな人間と社会の可能性が見えてきます。


戦国時代を平和理に収束させようとした村重の思想と行動は、取り巻く時代背景を考えると早すぎたのかもしれません。しかしその理念は、のちの本能寺の変や豊臣政権の成立といった歴史の転機の中で、かたちを変えながらも受け継がれた可能性があります。


そして今、世界を見渡せば再び大きな戦争や対立の渦中にあります。だからこそ、力による支配ではなく、共存や対話を重んじた村重のような視点が、現代においてもますます重要になっているのではないでしょうか。


一人ひとりが「争わずにどう生きるか」を問い続けること。それが、平和な世界づくりへの第一歩であると、私が歴史から学んでいることです。


追記

荒木村重が豊臣秀吉に重用(重宝)された一因は、単なる生存のための処世術ではなく、彼が持っていた文化的教養・人的ネットワーク・外交能力に秀吉が着目した結果だと考えられます。


■ 村重が秀吉に重用された背景


1. 茶の湯の教養と人脈


村重は戦後、「道薫(どうくん)」と号して茶人として再出発しましたが、これは単なる隠居ではありません。彼は千利休を中心とする茶の湯ネットワークにおいて重要な役割を担っていたとされ、秀吉が茶の湯を政治に活用するにあたって、文化的ブレーンとして村重を評価していたと考えられます。


※特に茶会において、村重は利休と同席する例もあり、重要な茶会に名が見えるのはその証左です。


2. 対毛利・本願寺とのパイプ役としての価値

村重は過去に毛利氏や石山本願寺との外交・軍事連携を経験しており、西国大名や宗教勢力との交渉に長けた人材でした。秀吉が全国統一に向けて中国・四国方面に進出する中で、こうした対外関係に通じた人間は非常に貴重でした。


3. 信長政権を知るバランス感覚と人間観察眼

村重は織田政権の中核にいながら反旗を翻した人物であり、信長の統治スタイルの限界や圧政性も熟知していた。秀吉にとっては、織田家中での力学や人間関係を知る「生きた資料」であり、調停型の政治を志向する秀吉にとって貴重な助言者になりえました。


4. 処刑されなかった=秀吉の明確な意図

村重の謀反は信長を激怒させましたが、秀吉の時代になってからは明確に赦され、文化人として遇されたことが史料から確認されます。これは「能力のある者を排除しない」という秀吉の統治哲学と一致します。


■ 村重と秀吉:文化でつながる「信頼と共存」

茶の湯・対話・教養・戦略――

村重は、武力と恐怖ではなく、文化や信頼、ネットワークをもって生き延びた戦国武将であり、秀吉もそれを見抜いて活用したのでしょう。