「誓願寺」(京都市中京区新京極桜之町)を訪問
(山門側から見た)誓願寺
誓願寺は、浄土宗西山深草派の総本山の寺院で街中(新京極通りの中央)にあり、本尊は阿弥陀如来です。
清少納言・和泉式部・松の丸殿(豊臣秀吉の側室・京極竜子)などの女性達からの深い信仰や、(落語の祖)策伝上人(※1)・謡曲(※2)「誓願寺」(世阿弥作)により、「女人往生の寺」・「落語発祥の寺」・「芸道上達の寺」として知られています。
誓願寺墓地には、(織田信長の重臣、加賀藩祖)前田利家の三女、摩阿(まあ)の墓などがあります。
また、山門の外、北側には「迷子道しるべ」と書かれた石柱があり、「親子の縁をつなぐ」という伝承があります。
[誓願寺の略歴]
飛鳥時代の天智六(667)年に、天皇の勅願により奈良に創建され、鎌倉時代初期に、京都の一条小川(現・京都市上京区)に移転しました。
天正元(1573)年四月には、上京焼き討ち(※3)の火災で誓願寺が消失しましたが、翌天正二(1574)年五月三日、荒木村重が本堂を寄進しました。
その後、天正十九(1591)年、豊臣秀吉の寺町整備の際、現・三条寺町に移転され、6千5百坪の境内が広がり、18ヵ寺の塔頭寺院がありました。
そして、江戸時代には、寺町界隈は、洛中一賑わっていました。
明治時代、(東京へ遷都後の京都を復興するため、)大歓楽街が計画され、誓願寺境内の大部分の土地等が公収されました。そして、三条〜四条間に新しい路「新京極通り」が通されました。
誓願寺は、これまで10回の火災に遭いましたが、その度に再建され現在に至っており、誓願寺周辺は、現在も賑わっています。
[誓願寺の文化財]
多数ありますが、そのうちの荒木村重に関するものは①②に記載しています。
①紙本墨書「誓願寺奉加帳」1帖
安土・桃山時代(1574年)作
本堂再建のための奉加帳(寄進する財物目録、寄進者住所・氏名)
織田信長に仕えた荒木村重の名と花押が冒頭にあります。
②「誓願寺門前図屏風」2曲1隻
岩佐又兵衛(※4)作(京都文化博物館保管)
この屏風の誓願寺門前に描かれている親子は、「親子の縁をつなぐ」という伝承に由来しています。
誓願寺門前図屏風(京都文化博物館の2021年の特別展のチラシより)
※この屏風に関連する内容が、当研究会のブログ記事(2021.6.11付、2021.8.8付)に掲載されています。
[注釈]
※1:誓願寺第55世法主。安楽庵流(織部流の分派)茶道の祖。美濃(現・岐阜県)の武将
金森定近の子と言われる。兄に金森長近などがいる。
※2:能を構成する音楽要素と舞踊要素のうち、歌の部分。
※3:当時、足利義昭と対立していた織田信長が、(義昭に圧力を掛け、義昭との和睦交渉を有利に進めるため)上京および洛外を焼き払った事件。内裏・相国寺や義昭のいた二条御所は、無事であった。
この和睦交渉には、(信長の重臣)佐久間信盛と共に、荒木村重と細川藤孝も織田方として参加し、義昭に味方する武士は京都近郊にはもういないことを示し、抗戦を諦めさせた。
※4:江戸時代初期の絵師で荒木村重の子(孫という説も有)。有岡城落城時に、有岡城にいた荒木一族が信長方に捕らえられる中、乳母に救い出され、石山本願寺で保護されて育つ。「浮世又兵衛」と呼ばれ、浮世絵の開祖として語り継がれた。
[参考図書等]
シリーズ実像に迫る010「荒木村重」
(天野忠幸著、戎光祥出版)
信長と戦った武将 荒木村重
(市立伊丹ミュージアム)
誓願寺公式ホームページ
ウィキペディア
Yahoo!知恵袋
京都風光ホームページ「誓願寺」
[誓願寺へのアクセス]
京都市営地下鉄東西線
京都市役所前駅から南へ徒歩約5分
阪急京都線
河原町駅から北へ徒歩約6分
京阪本線
三条駅から三条通りを西へ、その後、
新京極通りを南へ 合計徒歩約10分






