「荒木村重の足跡を辿る」(No.7)(荒木S)「高槻城跡」 | 荒木村重研究会ブログ

荒木村重研究会ブログ

荒木村重研究会の手作りブログ

荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
例会 、歴史探訪 、講演会、 勉強会 、イベント 、 会報『村重』の発行や会員交流に役立つ情報を発信しています。

「高槻城跡(高槻城公園)」(大阪府高槻市)を訪問


郡山(白井河原の)合戦(当連載No.6参照)で討死した(高槻城主)和田惟政は、亡くなる約3年前からキリスト教宣教師と交流がありました。しかし、宣教師が(弟)惟増や(家臣)高山飛騨守を訪問することを快く思っていませんでした。2人が家中の実力者であり、自分を蔑ろ(ないがしろ)にすると感じたこともあったと推測されます。

惟政の討死後、高槻城主になった(惟政の子)惟長は、(叔父=惟政の弟)惟増を殺害しました。


元亀三(1572)年末には、武田信玄が徳川家康を破り、三好三人衆・本願寺顕如・松永久秀・朝倉義景・浅井長政・武田信玄などの包囲網に、足利義昭と織田信長は苦しめられ、追い詰められました。
すると、元亀四(1573)年2月13日、義昭は信長を見限り、三好三人衆・本願寺などの包囲網に加わりました。


(義昭と信長をめぐる)この勢力の再編が、和田家内の(惟長・一族・側近方の)近江出身派閥と(高山飛騨守・右近父子方の)摂津出身派閥との対立を、表面化させました。

惟長一派が高山父子を殺害しようと計画し、高山父子がそれを察知、右近は荒木村重(少し前に、既に信長方に移行)に相談したのです。  

すると、惟長を討つよう村重は右近に勧め、援軍を送りました。

右近は惟長に大傷を負わせ、惟長は京都の伏見に逃れたものの、元亀四(1573)年3月15日に手傷が原因で亡くなりました。

その結果、村重の後見を受けた飛騨守が、高槻城主になりました。


この事件により、村重は、北摂最大の実力者になりました。 




高槻城跡は、現在の高槻城公園に位置し、石垣・池・高山右近像等があります。
また、公園内には、他に歴史民俗資料館・庭園・交通遊園(ゴーカート)・遊具・芝生広場等があり、市民の憩いの場になっています。



[参考図書等]

シリーズ【実像に迫る】010
「荒木村重」(天野忠幸著、戎光祥出版)

「戦国摂津の下克上」(中西裕樹著、戎光祥出版)

「荒木村重研究序説」(瓦田昇著、海鳥社)

高槻市のホームページ


[高槻城跡(高槻城公園)へのアクセス]

阪急京都線
高槻市駅から南へ徒歩約10分

JR(西日本)京都線
高槻駅から南東へ徒歩約15分



写真上            高槻城跡



写真下            高山右近像