『「日本史」の最新常識 驚きの125』(監修 小和田哲男)(株式会社 宝島社)(荒木S)
次々に発見される歴史史料に基づき、歴史の教科書もどんどん変わっているという話を、最近よく耳にします。
「自分の学生時代に習った日本史は、現在、どのようになっているのか?」と関心のあった私の目に留まったのが、本書です。
小型サイズで気楽に読めそうであるのと、「監修 小和田哲男」と書かれていることが決め手になり、購入しました。
小和田哲男さんと言えば、今まで多くの大河ドラマ(1996年の「秀吉」から2020年の「麒麟がくる」まで戦国時代の7作品)の時代考証を担当して来られ、時々、TV番組にも出演しておられる、日本の戦国期研究の第一人者です。
本書には、数々の興味深い内容が書かれていますが、荒木村重についても書かれており、驚きました。(私の無知かも知れませんが、同様の本には、そもそも荒木村重について書かれていること自体が珍しいというイメージを持っています。)
掲載ページのタイトルが、『本当は家臣に愛された荒木村重』と書かれています。
「百聞は一見にしかず。」ということで、実際にお読みいただくことを皆様にお勧めしますが、それが無理な方のために、以下、内容を要約・抜粋して掲載させていただきます。
「天正6年(1578)、村重は突如有岡城(伊丹城)に籠もり、信長に反旗を翻した後、村重の有力家臣である高山右近、中川清秀は、信長の脅しに屈して寝返り、信長に従った。村重はこの時、人質であった両名の妻子を殺さず解放している。部下であった両名の、その立場を理解しての温情である。また、秀吉が説得のために有岡城に入ったが、村重は秀吉を(殺さず)丁寧にもてなして、送り返した。」
『村重は本当に家臣を捨てて逃げたのか?』
「信長は、5万を超える軍勢で有岡城を囲んだが、有岡城は1年以上籠城に耐えている。城内の兵糧が乏しくなり始めた頃、村重は一人城を抜け、尼崎城へと入った。この行動は、城を捨てて逃げたのではなく、毛利と交渉するため、海路で毛利と連絡の取れる尼崎城へ移ったと考えるべきであろう。村重の移動後も有岡城は抵抗を続けており、それは城主が逃げた後の城の姿ではない。」
「信長は、落城寸前に追い込んだ有岡城の城兵に、村重の説得を助命の条件とし、降将たちを尼崎城へと向かわせた。驚くべきことに、この村重の家臣たちは尼崎城に入り、村重と合流して信長に再び刃向かった。これに信長は激怒し、村重とその家臣の妻子を見せしめのために処刑することを指示。
村重の家臣は、自身や妻子の命より、主君である村重を選んだことになる。村重は、その身可愛さに人質や妻子を捨てたのではなく、家臣たちが村重への忠義を果たしたことで、人質たちは殺されたのだ。」
まとめ
要約・抜粋部分の
序盤からは、
①「村重は人命を大切にした。」
中盤からは、
②「村重が有岡城から尼崎城に移ったのは、逃げたのではなく、作戦上の理由である。」
終盤からは、
③「村重は、家臣に愛されていた。」
と言えると思いますが、皆様いかがでしょうか?
