村重の息子 岩佐又兵衛 | 荒木村重研究会

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荒木村重研究会は「荒木村重研究序説」(瓦田昇著)の発行をきっかけに翌年1999年に伊丹で誕生しました。
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岩佐又兵衛は、天正六年 1578年 荒木村重の子として伊丹城にて生まれたが、その年、村重は石山本願寺と通じて信長に謀反をおこした。
信長は苦労して伊丹城を攻め陥したが、村重は尼崎城に移り、それでもなお抗戦したので、信長は人質としていた村重の妻妾と子、家臣らを惨殺にした。
又兵衛の母もこの時に亡くなっているが、又兵衛自身は乳母とともに城をのがれ、京都本願寺の子院に匿われ育った。成人になると、岩佐又兵衛勝以(かつもち)と名乗った。
岩佐の姓は母方のものと言われている。
又兵衛は織田信雄に仕え、この頃から次第に絵画の才能が認められるようになる。又兵衛は独学により画技を身につけたようだ(狩野内膳に学んだという説もある)。

大阪夏の陣の直後、又兵衛39歳は京を離れ北之庄(福井藩)に移り以後約20年間を過ごしている。この間に又兵衛の画名が知られるようになる。
福井時代初期 川越東照宮「三十六歌仙額」


寛永十四年1673年、又兵衛は妻子を福井に残したまま江戸に移り、幕府や江戸詰の諸大名のために作画生活を過ごし、多数の作品を書き上げたと言われる。大坂の陣から数十年間、大名達は絵巻の制作に熱中する時期があったからだ。

代表作
洛中洛外図 船木本 (国宝)
山中常盤物語絵巻
堀江物語絵巻
浄瑠璃物語絵巻など

一方、又兵衛は福井時代に自ら主宰する工房で古浄瑠璃絵巻群を制作していた、江戸に移ってからは工房も移ったと考えられている。
絵巻には署名、印章はなく、あるのは、金谷屏風、柿本人麿・紀貫之像双幅、鹿と貴人図などなどである。

又兵衛の署名、印章は「勝以」「碧勝宮」「道蘊(どううん)」があるが、福井時代の作品から使われている。

「薀」という漢字には、五蘊/人間を構成している五つの要素/色蘊・受蘊・想蘊・行蘊・識蘊の五つ/奥深い/つむ/たくわえるなどの意味をもつ漢字。


父、村重は茶人として「道薫」と名乗っていた。村重が亡くなったのは又兵衛(京都在住)が9歳の時、廻国道之記(かいこくみちのき)によると、又兵衛は翌年に秀吉と利休が企画した「北野大茶会」に出席している。

又兵衛が「道薀」とも名乗ったのは、父 村重との関わりと思われる。


(又兵衛のイメージ 模作)


又兵衛は福井に戻らないまま、慶安三年1650年72歳で亡くなっている。
又兵衛の嫡子の源兵衛勝重は工房を継ぐとともに福井藩のお抱え絵師として仕え、さらにその子の陽雲以重が相続している。

MOA美術館には又兵衛が福井の妻子に送った自画像とされるものが所蔵されている。

オリジナルはこちらから ↓

又兵衛は既成の流派に属することなく、作品の中での人物表情、手足、容態の表現に独特な個性、ユーモアが感じられる。



関連書籍

岩佐又兵衛作品集

東京美術

矢代勝也氏


現代のマンガにも通じる個性的な画風と、卓抜した表現力に魅力がある岩佐又兵衛の作品、
本書には人気が高い絵巻作品を全画面掲載し、

さらにノーカット・フルカラーです。
「山中常盤物語絵巻」「浄瑠璃物語絵巻」「堀江物語絵巻」を含む、MOA美術館所蔵の又兵衛作品すべてが収録されています。


絵ことば又兵衛

文藝春秋

谷津矢車 著



絵の道で生きていた又兵衛、じつは自分の父が荒木村重であること、そして乳母を殺した首謀者が村重だったことを知る。
母を想い、父を恨み、人と関わることも不得手な又兵衛にあるのは、絵だけだった――。


MOA美術館 岩佐又兵衛のサイトへ

https://www.moaart.or.jp/?event=matabe-2019-0831-0924



さて、私Gouの母方は荒木村重を先祖と仰ぎます。私の甥が講談社から漫画の章を受賞しました。画才の遺伝子を受け継いでるかもって、家族で笑っています。

無料です。「https://pocket.shonenmagazine.com/episode/3269754496576721588