村重、有岡城から尼崎城・花隈城に向かい戦線立て直しを試みるも。。 | 荒木村重研究会

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村重が有岡城を出て尼崎城に向かった事実について、大雑把な言い方としては、

「有岡城主の村重は信長勢に追い詰められたので、妻子や家臣を見捨て、大切な茶器を抱えて有岡城から逃げ延びた人物だ」とまとめられることがある。

信長側からみれば、人質となった妻子や家臣の命と引き換えに降伏しなかったことは「見捨てた」ということであり、村重は最終的には毛利方に逃れたので「逃げ延びた」としてこれら事実を繋ぐことはできるだろう。


(図 メモ書き)





村重が動いた理由や事情を史実と照しあわせながら追っていくと、尼崎城に向かって村重が複数の家臣と共に有岡城を出たのは事実だが、これは劣勢に陥っている尼崎城の戦線を立て直すためであった。この時点で有岡城はまだ信長勢と戦っている最中である。しかし村重を取り巻く状況は味方であった高槻城主、茨木城主が次々と信長側に寝返ったので徐々に追い込まれていた。さらに有岡城への兵糧ルートの要である尼崎城の救済は喫緊の課題であった。なぜならここを奪われると有岡城は補給ルートが断たれた上に東側からの挟み撃ちとなり、落城は必至となるからだ。村重は尼崎城で武勇を発揮しようと向かったのである。

強力な信長勢を負かすための作戦は共闘関係にある毛利方から援軍を得て軍事力を高めて臨むというものであった。



なお、尼崎城と花隈城には毛利や雑賀衆(本願寺側)の兵も来て、村重勢と共同して織田側と戦っていたが、より一層の増兵を要していた。村重が尼崎城に移ったのは9月、有岡城から離反者が出て遂に開城に追い込まれたのが11月で同城にて妻や家臣 が人質として捕われている。

この時に村重が人質を救うために降伏し、尼崎城や花隈城を開城できたかというと難しく、その理由は毛利・雑賀衆と共同して戦闘中なので村重が独断することができなかったからだ。特に雑賀衆は石山本願寺と信長との和睦反対派なので交戦継続の意思は強く、戦いの場である城を明け渡すという合意は困難であった。

その結果、12月に人質となった村重の妻や家臣たちは信長によって殺害されてしまう。

村重としては毛利からの強力な援軍がもっと早くに来れば、迫り来る信長勢を蹴散らせただろうし、尼崎城に移った後でも援軍が来れば大いに反撃し妻や家臣の無念も晴らせると一心に考えていたことであろう。事実、援軍要請の書状を頻繁に送っていた。

伊丹市立博物館所蔵

荒木村重が武田四郎次郎らにあてた書状

「『一刻もはやく待ち申し候。』など援軍を求め得て反撃をうかがう心情がつづられている。」


しかし、毛利からの援軍は来ず、この間に石山本願寺は翌15804月に和睦、村重らはその後も約3ヶ月間、尼崎城、花隈城で戦うが、遂に7月、花隈城が落城し、村重、元清、村次は毛利輝元を頼って尾道に逃れることとなった。

結局は敗走しているのだが、この移動は取り巻く状況のなか最終的に村重達が下した決断である。


一般的に総大将とは戦い抜くか、若しくは負けを悟った時は切腹して「始末」をつける例が多い(もちろん個々に見れば多様である)。始末とは潔しの武名を残す、城兵を助ける、子孫の重用を願う場合がある。



村重が毛利方に逃れる時の想いは、機会を待ち再び戦いに臨むつもりだったかは分からないが、実際には毛利方の尾道に到着した以降における毛利輝元の決断、本能寺の変、秀吉の天下統一など刻一刻と移り変わる情勢のなかで、村重の心境に変化がおこったのは事実で、後日、実際に茶人として利休の弟子となり秀吉の下で活動を始めている。


なお、村重の息子村次、親戚の元清は、その後も武人として活躍し、荒木家の名を後世に繋げている。ここで登場する以外にも村重の子孫は複数おり、今もなお多方面でその名を継いでいる。