天正8年(1580年)荒木村重は有岡城から尼崎城に移り戦線の立て直しを図ろうとするが、織田勢に追われ、最後の砦となる花隈城にて戦いを続けます。
このころ(同年閏3月)、織田信長と石山本願寺の顕如が和睦したが、この和睦に反対する顕如の長男・教如を支持する一向一揆(摂津西部の本願寺の門徒)は荒木方花隈城に合流していました。
花隈城では約4ヶ月間小競り合いが続いたが、1580年7月2日、織田側の池田勢の総攻撃に耐えきれず、荒木村重・荒木村次・荒木元清らは毛利領へ逃れました。
この戦で功績を挙げた池田恒興(つねおき)は信長から村重の所領を与えられますが、恒興は花隈城に入らず、より海に近い兵庫津に兵庫城を築きます。
※ 一向一揆(いっこういっき)とは、浄土真宗本願寺教団の信徒たちが起こした、権力に対する抵抗運動の一揆の総称。
花隈城跡 神戸市中央区花隈町1
兵庫城跡 神戸市兵庫区切戸町5−26
舞台となったこの地は兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれ、瀬戸内海に位置し千年以上の昔から航路として利用されています。また六甲山系によって北西の季節風が遮られ、和田岬によって荒い波が防がれる水深に恵まれた天然の良港でもあります。
古くから国内外との交易によって栄え、明治維新後には初代の兵庫県庁が設置された「兵庫県のはじまりの地」です。
最近では兵庫津の新たな施設として「
令和4年度下期には博物館施設「ひょうごはじまり館」が開館予定で、
魅力あふれる企画展が予定されています。さらに大画面の五国シアター(仮称)により、兵庫の自然・文化・歴史をスクリーンに映し出し実際に現場にいるかのような臨場感が味わうことができるようです。
兵庫津ミュージアム ホームページより