戦国時代の武家の女性は、人質や政略結婚となった例のほか、あと継ぎを産む役割もあった。そのほかに夫へ助言する立場でもあった。なかには嫁ぎ先の情報を伝えるスパイ的な働きをしていた女性もいた。
例えば、秀吉の正妻おねは、政務に苦言を呈し政策にも影響を与えていた。前田利家の妻まつ、そして山内家の千代も対等な立場から意見をしていたという。
戦国時代の武家の妻には、夫の不在時は家を守る役割があった。黒田官兵衛(孝高)が荒木村重によって有岡城に幽閉された時、黒田家の家臣たちが官兵衛の妻に忠誠を誓う証文を提出していた話は有名だ。
妻による領国経営は、今川寿桂尼(じゅけいに)が遠江・駿河を実質2年間取り仕切った例もある(夫・氏親)。また、遠江の国人領主であった井伊直盛、直親が亡くなり存続が危ぶまれときに直盛の娘が次郎直虎と名乗り家督を継いだ例がある。
播磨・備前・美作を領していた赤松政則の妻・赤松洞松院尼(あかまつとうしょういんに)は、政則の死後、子の義村や孫の道祖松丸に変わって印判状(権威や効力等を持つ武家文章)を出していた。
石田三成に仕えた武将・山田去暦の娘おあむなどの話が代表的だ。
合戦時において夫不在の時は、主将としての役目、首実検の首化粧から鉄砲玉の作成、鉄砲隊員として参加と言った例が史実に残っている。実際に戦場に出て戦った女傑としては、甲斐姫、鶴姫、妙林尼(みようりんに)、富田信高夫人などの女性武将の話がある。
さて、荒木村重が天正7年(1579)9月2日に有岡城から尼崎城の戦線を立て直すために移る際、有岡城の指揮を荒木久左衛門(池田知正)に任せた。当然、村重の妻である「だし」も城主の妻として久左衛門と共に有岡城を守り、尼崎城にて戦う村重の奮闘に賭けていたことでしょう。
しかしながら有岡城は11月19日に織田軍が城に入り開城、だしをはじめ村重家臣は捕虜(人質)となります。この時、村重から有岡城を任されていた荒木久左衛門は尼崎城にいる村重の元に向かい「人質を救うためには信長と講和し謀反を止めるよう」説得するが、村重の答えは「止めずに戦う」であった。久左衛門は門前払いとなってしまった。
この決断は村重謀反の意志の強さを感じる一幕であるが、村重を取り巻く状況からも謀反を止めることは出来なかった。村重は毛利氏や雑賀衆に人質を出し共闘関係を結んでおり、尼崎城、花熊城では毛利氏や雑賀衆から派遣された援軍が来て共に籠城しているので、例え、村重の妻だしらが人質になったとしても、花隈を明け渡す決断を村重単独で決断し信長と和睦できるような状況になかったのである。
このことは、信長側からみれば、村重のNoは有岡城の人質を見捨てたことになり、講和の要求に応じなかった結果として、多くの人質の命が奪われてしまった。
なお、村重は尼崎に移動したあと花隈(熊)城に移り、さらに4カ月間も信長軍と戦っている。
また、荒木久左衛門は、村重が説得に応じなかったので有岡城には戻らず淡路に移動したと言われている。
「妻だし」については諸説あるが、城の本丸の大手門に近い出っ張りの場所に住んでいたので、「だし殿」と呼ばれていた。有岡城では二人の妹と共に暮らしていた。
伊丹荒木軍記/伊丹市立博物館蔵
