ウクライナ侵攻、半年が過ぎた。日々、人がむごたらしく殺され、瓦礫の山を積み上げている。
この国では、元首相が銃撃されて、逮捕された容疑者は、カルト宗教で不幸のどん底にあった。そのカルト宗教は、何十年も政権内部に食い込んで、本来、不幸な個人を救い上げるべき政治が機能不全で、追い込まれた不幸が暴力という形で噴き出す。
不幸に覆われた暗い時代だ。アーレントを読んでいて、同じ時代を生きたシモ―ヌ・ヴェイユを読みなおそうと思い立った。 シモ―ヌ・ヴェイユは、万人向けではない。すごく深入りしてしまう人と、全く受け付けない人に二分されるというのが私の印象。 前者は私の友人で、後者は若い頃の私。
友人は、何でも人にあげちゃうし、犠牲を絵に描いたような人で、かなりの高給取りなのに、いつも金欠で、結婚には失敗、ボロ家で一人暮らしで、拒食症で亡くなってしまった。 少ない遺品の中にシモ―ヌ・ヴェイユの本がずらりとあって、彼女の行動の糧はシモ―ヌ・ヴェイユだったのかと、勝手に納得した。
マネしちゃいけないよ。妥協しなきゃ不幸になる。わたしなんか自堕落、不誠実で長生きしている。
読む前に、シモ―ヌ・ヴェイユの生い立ちから死まで。
わずか34年の生涯のおさらいをしてみよう。
1909年、パリで父が医者のブルジョワ家庭に生まれた。両親はともにユダヤ系だったが、無宗教。3歳の兄アンドレとシモ―ヌは自由でリベラルな雰囲気のなかで育った。
シモ―ヌが6歳のときに、父は第一次大戦に召集されて、父といっしょに家族はフランス西部の前線を転々とした。通信教育で学んだこともあったという。 この前線経験で、シモ―ヌは軍隊のヒエラルキーを観察し、
「わたしは、将校よりも、軽蔑されている人たちが自然に好きになった」。
美少女で、5歳で17世紀の詩を暗唱し、学校の成績はずば抜けていたという才色兼備。あまりに彼女ばかりをほめ過ぎるからと、学校から自主退学を要請されたほどだったが、兄はパスカルの再来と言われた頭脳の持ち主、後に有名な数学者で、シモ―ヌは自分の秀才の凡庸さに悩んでいたという。
こんな美貌と頭脳に恵まれていても、唯一の弱点は、生後6か月のときの衰弱がもとで、一生、虚弱体質。血行障害による手足のしびれ、断続的な片頭痛、不眠など。
毎日、発作を起こさないように、疲れるようなことはやめて、おとなしくしていようというのが、当たり前の容態
だと思われるのだけど、病弱だろうが、凡庸な頭脳だろうが、人生を切り拓くのはワタシよ!
「パンを願い求めるならば、石を与えられることはない」(マタイ福音書)
大戦が終り、パリに戻って、パリ高等師範学校に首席で(次席はボーヴォワール)入学し、アランに学ぶ。アランは、ドレフュス事件では、ユダヤ人将校に味方した。
アラン 「幸福論」で有名だね
大学時代、シモ―ヌが数々の政治的な活動を行ったのは、アランの思想と行動の一致の影響があるかもしれない。シモ―ヌは、アランの折衷主義を批判したが、私はそれは一種の成熟じゃないのかと思う。
シモ―ヌは「レヴィ族(ユダヤ人)のアカの乙女」と教授陣から呼ばれて、有名になった。
共産主義、社会主義、シオニズム(ユダヤ人の故国復帰)、アナーキズム…、何でも「アカ」なのよ。
知識人が共産党に加盟しているこの時代に、アランもシモ―ヌも、共産党にコミットメントすることはしなかった。その他の組織に属することもなかった。労働者の解放は労働者自身が行うべきで、知識人は援護射撃以上に踏み出してはならないという信念をもっていた。
「さまざまな人間的環境に入り込んで、人々と混じり合い…あらゆる点においてひとつの溶け合ってしまうこと。それというのも、彼らがわたしに自分自身を飾らずに見せてくれるようになるためです。彼らをあるがままに知ってあるがままの姿で愛さないならば、わたしが愛しているのは彼ら自身ではなく、わたしの愛も本物ではないのです。(「神を待ち望む」)
専攻の哲学でも、抜群の才能を発揮したシモ―ヌは、無事卒業し、大学教授資格試験に合格し、南フランスのルーピュイの国立女子高等学校に哲学の教授として赴任する。
そこでも、市議会に嘆願書をだそうとした失業者の集団に同行し、狼狽した労働者の代わりに発言したことがきっかけで、シモ―ヌが再び注目をあびることになる。
「薄絹のストッキングをはき、メガネをかけたインテリ女性が、デモを組織し、騒乱を起こそうとしている」と地元の新聞は書き立てた。
前列左がシモ―ヌ、右が校長。後列は同僚の教師たち
シモ―ヌは、生徒たちから「シモ―ヌさん」と呼ばれるほど慕われていた。実際、生徒のためには骨身を惜しまなかった。
誹謗中傷の嵐の中で、生徒たちとその親たちは、歎願書を文部省に提出する。
続いて、男子高等学校、小学校教員組合、女性の権利のためのフランス同盟…などが、擁護や歎願書を提出した。その結果、懲戒処分は見送られたが、翌年オセールの女子高等中学校(リセ)への転任を命じられ赴任した。そこでは、機械的な暗記を強要する教え方を拒んだため、免職。次のロアンヌのリセでは炭鉱夫の行進への参加が問題視された。
25歳の彼女は自分が何をやりたいのか自問する。
リセを転々として教職を続けるか、大学の研究者になり、学問の合間に政治首をつっこむ知識人か? いっそう専門の活動家か?
そして、それのいずれも却下。 彼女が選んだのは工場労働者だった。
虚弱体質の彼女には、過酷すぎる労働が待ち構えていた。
その年、1934年、ヒットラーが、首相とナチ総統に着任した。
トロツキーと会った彼女は、ロシア革命は失敗で、スターリニズムを批判した。
工場体験で、苦しむ人々と溶け合い、同じ苦しみをもつことが、どのような意味をもつのか、次回考えてみたい。