人間の条件④活動 | あらかんスクラップブック

あらかんスクラップブック

60代の哀歓こもごも

ハンナ・アーレントの考える人間の条件、労働、仕事につづき、活動? 活動ってなんだ?

活動って、生命を維持するための労働、作品を製作するための仕事ではない、一言でいえば、人と人の交流を行うこと。アレントは活動をこのように定義づける。

活動とは、物や物質の介入なしに、直接、人と人の間で行われる唯一の活動力であり、複数性という人間の条件、すなわち、地球上に生き世界に住むのが一人の人間ではなく、複数の人間であるという事実に対応している。

 

人間は、一人ひとり違う。他の人と区別し、自分のアイデンティティを自己開示する。それには、お互いの関係が平等で、談話(語り)によって行う。

ハイデルベルク大学

 

この活動のモデルは古代ギリシャ、アテネのポリス。アテネは身分制。それも家父長制で、一家の長の男子だけが自由民。家庭内では妻、子ども、召使、奴隷は、その男子に暴力と命令で支配される(オイコス)。

それに対し、ポリスは、家庭という私的な領域からでて、公共的な領域で、対等な立場で、他人を言葉で説得する。それを活動と呼んだ。ギリシャ時代が終わるとポリスは崩壊し、ローマ帝国の支配に服従することになるが、公的な領域の存在がなくなったわけではない。

西欧では、フランス革命のパリの地区委員会(パリコミューン)、ロシア革命のソヴィエト(評議会)、ハンガリー革命の評議会など、 公的な領域での活動(討議)の場で政治を行った(第2章)。

アレントは、「全体主義の起源」のなかで、全体主義が階級社会解体で根無し草にされてしまった大衆を組織化したとし、

プロパガンダの嘘に飾られた中心的なイデオロギー的フィクション…を現実へと変え、そしてまだ全体主義化されていない世界で人々を組織して、この仮構の現実に従って行動させる

 

そして、全体主義の運動が権力をもった暁には、彼らは実際に、彼らのイデオロギーに合わせて、現実を作り替えることができるようになるというのだ。

マールブルク大学

 

「人間の条件』第2章では、公的領域と私的領域について書かれてある。アテネでは、ポリスは公的で自由な活動の場、家は私的な支配の場で人間的な活動は奪われている。

この二つの領域に何か関係があるとすれば、当然それは、家のなかにおいて生命の必要を克服することがポリスの自由のための条件である、という関係である。

 

しかし、近代になって経済の発展により、これまで私的領域に閉ざされていた問題が共同体の関心事として、公的領域に侵入してくる。

そこで、私的領域と公的領域のあいだに、「社会」という領域が生まれる。そのために公的なものが私的なものの上部構造になり、公的領域は解体してしまった。

フライブルク大学

 

それじゃ、アレントが目指した活動という公的領域は、今日どのように復権できるのだろうか?

古代ギリシャのアテネの公的領域に政治の原風景をみたアレントの図式は、今日にそのまま当てはまるものではない。 女性や子ども、奴隷などの市民権をもたない人びとが公的空間から排除するなんてことはありえない。

しかし、その活動論は、代議制民主主義の選民主義の補完として、市民参加の熟議民主主義を考えるきっかけになるし、NPOなど、政府機関ではない組織のあり方、参加型デモクラシーを考えるきっかけになると思う。

今日の日本を振り返ると、議会制民主主義の行き詰まり、三権分立の不成立だけでなく、身近な自治会とかPTAでの活動。そのような場でも、経験の長い人物が威張っていたり、勇気をもって発言しても、ちゃんとした議論にならなかったり…、ユニークな発言を嘲笑するような雰囲気があったり、なにより公開の場なのに、もう事前に閉ざされた場で決定されていることも多い。公共という場が不在なのだ。

人々が自由に発言し、認め合いながら、問題解決を図る。そういう公共の場がなく、人々が分断されていれば、無関心で中立的な大衆の一員として、あっという間に全体主義に巻き込まれる。政治権力によって事実が歪曲、隠蔽される。大学や司法の独立性すら疑わしい。日本も少なからずそんな状況であることは間違いない。


アーレントを読む、哲学者の書いたものを読んだら、活動的生活になるのではない。哲学者は冷静な観察と思索から物事の本質を捉えて発表し、私たちは受け身で、「なるほど。わかる、わかる」と納得してるだけで、いいのだろうか?

アーレントは、この本で、「活動」によって、公的な領域を復権しろ、そのためには思考するという習慣を「人間の条件」と位置づけろと言ってるのだ。

考えろ。精神活動という領域を自分の内に持て。

それは、全体主義に対抗しうる力を育てることになる。アーレントはナチのアイヒマン裁判を傍聴し、アイヒマンは「凡庸な悪」しか持ち得ない。そのような悪は無思考性から生み出されたというテーゼを示した。ユダヤ人の彼女に激しい批判が集中しても、跳ねのけた。この経過は、映画をみると早い。


この本は、私のこれまでの活動的生を肯定してくれている。私のような学問とは無縁な者でも、まず、おかしいなと思うことは、事実を確認し、そして、考える。考え抜く。批判的にね。そして、哲学者じゃないから、行動する。

しかし、「うざい」と嫌がられ、「そんな立場にない人間だ」と抑えつけられ、酔狂者扱いされてきた。70歳過ぎて、もうこういう生活態度をやめて、書やガーデニングや料理なんかで余生を過ごそうと思ったりするのだが、最近、思索する者の書、育てられた植物、料理などが、思索しない者の技術に勝ると思うようになった。

このまま、突き進むしかないと確信させてくれるありがたい本。アーレント、著作は多い。読むのに時間がかかるが、折りにつけ読み続けようと思う。

 

アーレントの著書はどの本でも自分や今日の状況に合わせて、読み解くことができる。そういう意味で、自由な読みかたが可能だ。 映画がヒットしたので、新書などの翻訳本も多い。難しいからと最初に解説書に手を出さないでほしい。

図書館の本や、Amazonの古本は、あまり読んだ跡がない美本を手にとることができる。

この夏、ハンナ・アーレントの世界を体験してみてください。戦争の世紀を生きた人間から、戦争を実感している私たちへのこの夏、一番のおすすめ!


 

1975年 ニューヨークの自宅で心臓発作で死去。 享年69歳