全体性と無限 | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

毎日、毎日、35度の猛暑日。「危険な暑さ」の8月になった。

きょうから、夜明けの時刻に起きて、早朝の水やり。

ゴーヤとバジルとルッコラを収穫して持ち帰る。 途中、朝の散歩をしている人にゴーヤをもらってもらう。

 

パンを切らしているので、塩焼きそばをつくる。具はさつま揚げと玉ねぎともやし。オクラのスライスを散らして、こういうのが夏はいいね。

さて、ブログでも書くか…で、iPhoneの前にキーボードを置いて、やっています。

 

安倍さん銃撃事件。 今からおもえば、犯人の動機は個人的な事情ではなくて、この国の病理と心中したように思える。就職氷河期、いくら努力しようとも、貧しくて、生きることすらままならぬ。お先真っ暗で、家庭の宗教問題がなくとも、このような境遇をつくった安倍さんを撃ちたくなるだろう。 安倍さんが家庭を破壊したカルトの広告塔だけなら、こんな殺人をしないはずだ。 「因果応報」という言葉がよぎる。

 

秋葉原事件の加藤死刑囚が、死刑になった。この人もワーキンブプア。「目には目を」で、さらなる殺人を行う国。死刑制度。絞首刑。首に縄をかけ、遺体を収容する刑務官に残酷な重荷を負わせる国。

 

統一教会というのは、宗教ではない。宗教というのは、権力でもなければ、お金とも関係ない。3千年前くらい前は、人々は神々との対話によって生きていた。右脳で神の声を聴き、左脳が「人間の応接」で、神に従っていたなんて仮説が、ジュリアン・ジェインズの「神々の沈黙」という本にある。

世界宗教が誕生したのは、ユダヤ教は2500年前、キリスト教が2000年前。ブッダはBC463年前。孔子はBC500年くらい?

人が神の名を騙ってはいけないというのが宗教。人間は弱いもの。助け合って生きよというのが宗教。

 

まぁ、私なりの考えだけど、なんだ?宗教。なんだ?民主主義なんて、涼しい部屋で、もや~と考えている。宗教が定着して、アテネで民主主義が黄金期を迎えたのが、BC500年~400年。 なんだかんだあって、今も民主主義の国が圧倒的。 日本もそうだ。

いちおう、悪徳政治家でも「民主主義」、女性差別主義者でも、外国人排斥しようが、「民主主義」なのよ。どの口が言うか。安倍さんが選挙中に襲撃されれば、首相は「民主主義に対する攻撃」だという。議会制民主主義をぶっ壊してきたのが、安倍さんや。

この国の民主主義。 ほんと根付いていないんだね民主主義。

 

レヴィナスの「全体性と無限」。3週間も読むのにかかった。

ユダヤ人のレヴィナスは、1946年に強制収容所から帰還した。フランスの正規軍にいたからで、親族や知人はすべてドイツ軍に殺されていた。

世界が「ある」こと、存在が存在することの、禍々しい忌まわしさ、生き延びてある者にとっての、世界の決定的な無意味さが、それである。

無数の死のあとに、世界は、なおたんにある。同胞たちを文字どおり絶滅しようとした、収容所の焼却炉の煙が消え残るそのあとに、それでも世界が存在する。

ほんとの生活が欠けている。それなのに私たちは世界内に存在している。形而上学が生まれ育まれるのは、このような不在を証明するものとしてである。…

形而上学は、私たちになじみ深い世界から旅立ち、私たちが住まわっている「わが家」をはなれて、見知らぬ自己の外部、向こう側へとおもねく運動としてあらわれるのである。(全体性と無限)

 

形而上学、いやだね。哲学の言葉。

「全体性」とは、自己にとって同一化できるものすべて。主体の個体性を飲みこむ暴力で、レヴィナスは全体性の暴力に抗する手段として「無限」という外部を設定する。

「無限」と言うのは、他者の他性。

戦争というのは、全体性に飲み込まれて、主体性が破壊されて、他者に暴力をふるう。

 

貧困、暴力、死の恐怖におびえる他者の<顔>は、私の、自己の中の内在的世界を超えて迫ってくる。そのとき、私の中から「汝殺すなかれ」という倫理的な命令が下される。私は自己の内在的世界を無限に超越する他者を迎え入れ、他者の苦痛に責任を持つとき、無限へと開かれ、真に倫理的な主体となる。

 

無抵抗によって、暴力を告発する。

戦後、レヴィナスは、パりに創立された、優秀なユダヤ人子弟を集めた師範学校の校長を33年も勤めた。

1995年に亡くなった。

 

この本の序文の冒頭の文章が美しい。

私たちは道徳によって欺かれてはいないだろうか。それを知ることこそがもっとも重要であることについては、たやすく同意がえられることだろう。

聡明さとは、精神が真なるものに対して開かれていることである。そうであるなら、聡明さは戦争の可能性が永続することを見てとるところにあるのではないか。戦争状態によって道徳は宙づりにされてしまう。戦争状態になると、永遠なものとされてきた制度や責務からその永遠性が剝ぎ取られ、かくて無条件的な命法すら暫定的に無効となるのである。戦争状態がありうることで、人間の行為のうえにあらかじめその影が投げかけられているのである。戦争はただたんに、道徳がこうむる試練のうちに位置を占めているだけではない。戦争によって道徳は嗤うべきものとなってしまう。手だてのすべてをつくして戦争を予見し、戦争によって勝利する技術、つまりは政治が、かくして、理性のはたらきにほかならないものとして、理性に課せられることになる。哲学が素朴さに対置されるように、政治が道徳に対置させられるのである。

 

TVのワイドショーの政治家の顔、もう掃いて捨てるか、丸めて生ごみのなかに放りこみたい。べたつくような酷暑。体調をこわしそう…。

でも、レヴィナスを読んでると、感動的。一服の清涼。すばらしい!

レヴィナスは、共同して生きることを説く。 老化して死ぬことは他者のため、自殺を否定する。 

さぁ、ランチをつくるか。 トマト、バジル、エシャロット…。

食べることは生への愛。生への愛は存在を愛するのではない。存在することの幸福を愛するのである。