伊藤野枝みたいな② | あらかんスクラップブック

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60代の哀歓こもごも

伊藤野枝 25歳のころ

 

中高生の歴史の時間、「元来、女性は実に太陽であった」平塚らいてうと共に、「青踏」(女性文芸誌)、伊藤野枝という名前だけは記憶にある人も多いと思う。

      平塚らいてうと「青踏」

 

教科書の上っ面だけだと伊藤野枝は、真面目な女性解放家と思ってしまうが、評伝を読むと、実に大雑把でいいかげん、豪放磊落な人だから、面白い。

 

1895年、福岡県生まれ。父は家業をつぶして、瓦職人をしていたが、基本働かない。生け花と三味線が趣味でぶらぶらしている極道者。 母が日雇いで小金を稼ぐだけの超貧乏。 親戚の養女になって本に目覚める。 東京のおじさんを頼って14歳で上京し、高等女学校に進学する。

決められた縁組により、福岡の地元で結婚するが、すぐに婚家を逃げ出し、女学校の恩師だった辻潤と暮らし始める。

淫乱女とそしられても、家族や親せきに迷惑かけても、自分で決めたら、頑として行動に移す。 すっ飛んでいる。

「人並みの生き方はしない。17歳で、板子一枚下は地獄の生活をするだろう」と、女学校時代に語っている。女学校で婚約、卒業すぐで結婚。あるいは寿退学が常識という時代である。

辻潤は学校をクビになり、姦通罪で訴えられたりするが、一生定職につかず、好きな尺八や翻訳をして暮らした。 ニヒリスト、ダダイストとよばれたりする。

 伊藤野枝と辻潤

 

野枝は平塚らいてうに頼み込んで、「青踏」編集部で働き、20歳で編集長になる。 子連れで出勤し、赤ん坊が泣いても、平気で原稿を書く毎日。

女性問題については、当時の女性解放の運動家と論争を繰り広げている。野枝の主張を簡単に。

「貞操論争」…貞操「貞女両夫に見えず」というのは、こんなに不自然なことはない。

「堕胎論争」…産みたいと思えば産めばいいし、産みたくなければ産まなきゃいい、女は子どもを産まなきゃならないというのに従うことはない。

「廃娼論争」…賤業としておとしめず、セックスワークは労働として認めるべきではないのか。カネで女の身体とこころが天秤にかけられるのが間違いだ。

家事も育児もしやしない。赤ん坊のおしめが濡れたら、ぎゅっと絞って、干してまた使う。 おしめのウンチは、青踏社の庭にパサッパサッと捨てるので、事務員が後始末の掃除に追われる。 炊事道具はなく、金だらいですき焼きをしたり、鏡を裏返してまな板にする。

120年も前なのに、女だからという因習から無縁なのだ。あっぱれ!

 

大杉栄と出会い、大杉、大杉の妻、大杉の恋人と四角関係になる。

大杉も自由恋愛主義者なので、アツアツの関係になるが、恋人の神近市子に刺されたりする。 すごいね。大正の斬った張ったのスキャンダル。 

 野枝と大杉栄

子どもが何人もいても家がなく、宿屋暮らしを転々とする。金がなければ、誰かに頼んでもらう。親戚や友人だけではない。

大杉は当時の内務大臣の後藤新平にアポなしで会って、

「あんたら内務省のせいで、俺の本が発禁になってるから、あんたに金をもらいに来た」というのだ。ポンと100万円相当の金を出した後藤もすごい。 それで、いい着物をつくり、美味しいものを食べる。

 

      後藤新平

 

第一次大戦の頃は、日本は都市化、工業化で、労働者階級が誕生し、劣悪で使い捨てされるようになる。 大杉栄は、労働運動にストライキなどで参加するが、それだけで、「社会主義者だな」と何度も逮捕されてしまう。治安維持法というのは、予防的な逮捕が可能。 今の共謀罪法や秘密保持法も少し法改正すれば、治安維持法と同じになる。

 

5人の子どもをかかえて、野枝は後藤新平に怒りの手紙を書く。

「あなたは、一国の為政者でも 私より弱い」。

24歳の頃である。 労働者階級の女たちは、米が高くて買えなくなると、全国各地で、米騒動で米屋を襲い、買える値段に下げて売る。 買えない人は金を払わずにもっていく。

女は夫の稼ぎをやりくりして家を守れというのでは、失業した夫に頼ることはできなくて、女も子どもも餓死してしまう。

夫を頼る必要はない。米屋の米をみんなで持ち去り、分けて食べればいい。 女のそんな感覚、相互扶助があれば、政府はいらない。

 

「婦人労働者の現在」という文章で、野枝は書いている。

「いい良人と、暖かい家庭を手に入れるというのは、十中の八九までは夢。結婚しても、それを理由に低賃金で働かされる。女は奴隷として、二重の労働を強いられる」

だから、「奴隷として飼いならせてきた自らの心身を解放せよ。家にも雇い主にも従うことはない。死力をつくして、直接行動を行おう」

非国民、上等。 失業、上等。 因習はぶっ壊せ、貞操なんかたたき売れ。 

相互扶助と自治。 

大杉と野枝は、「国家の害悪」とされ、四六時中尾行がつき、1923年、連行され、連れていた甥と共に虐殺され、屍は真っ裸にされて、畳表に巻かれて、古井戸に落とされた。

「たとえ、絞首台の上にでも光栄として上り得る」という自らの予言どおりに、命を終えた。

享年28歳。

 伊藤野枝の墓

 

野枝さんは、国家にぶっ殺されてしまったが、その思想の一部でも、私たちは、これから生きることができる。

 

この国の苦しんでいる女たちに、野枝さんの本をお薦めする。