Здравствуйте!!
皆さん、こんにちは!
しばらく休みます、と前回宣言したが、間を置かずにブログ更新…
というのも、やっとこさ地獄のような苦しみから解放されて、回復中の今、気力が少し出てきたら…、
暇。
なんである。
まあ…、まだ退院できていないということは、完全に良くなっているわけではなく、
①血圧が80切ることもある
②熱もよく出る
③症状は治りきってない
という状態だが、しかし。
退院の目処がたった!
ので、気持ち的にはとても楽に…!!
昨日の回診で、主治医から…
そして退院となると。
送迎が必要なので、夫の仕事都合もあって、退院予定日は
2月1日木曜日
に決定!!
(順調ならば…)
本当に良かった…。
長かったよ、入院生活。
だって、かれこれ今日で19日目
こんなに長く入院したのはいつぶりか。
あともう少し入院生活は続くが、終わりが見えるととても嬉しいもんだ。
さっそく、仕事場の上司にも連絡して、職場復帰の日時も決定!
美容院の予約も入れ直した。
ものすごく気持ち的には、上向きに…‼︎
しかし、ロシア語の学習はというと…
なんと、
不定形мочь が思い出せなかった…‼︎
その他にも、実際、紙に書こうとしたら綴りがあやふやな単語がいっぱい…‼︎
…、
……、
まあ…、
もともと年末はろくな勉強時間も確保できず、年明け早々数日間、生死の境を彷徨ったんだから、当たり前っちゃあ、当たり前…なのか。
しかし、ショックだった。
覚えるのは時間がかかるのに、
忘れるのはあっという間
なんだなぁ…。
歳のせい人間の理不尽さにしみじみと「あはれなり」となったところで。
新たにお知らせを…。
今後、元気になったとしても、以前書き始めた私的な事情を書き上げられるか、もう自信がなくなった。
私的な事情↓①
②
③
したがって、もうここから以降は、顛末をまとめてしまうことにした。
以下は、そのまとめ。
※興味のない方は、飛ばして下さい。
5月終わり〜6月
父が3度倒れ、その度に実家を往復した私。
流石に、もうこれ以上は1人にできないと判断、救急車を呼んで父を入院させる。
これが、父の第一回目の入院。
6月〜7月
父が1人暮らしを再スタートさせるも、退院したその日から転倒有り。
昼夜かまわず、早朝だろうが夜中だろうが、勤務時間以外で父に呼ばれる度に、私は実家と今の家を往復することに…。
しかし父の容態は次第に悪化、動けないことが何度も何度も繰り返されるうち、なんと今度は
急性肺炎と脱水症を起こし、緊急搬送される。
これが、父の2度目の入院。
7月〜8月
肺炎は、乗り切ったものの、結核疑いのため、父は隔離病棟へ。陰性が立証されるまで入院は継続。その後2ヶ月に及ぶ長期の入院がスタートする。
なお、身体が徐々に動けなくなっていった原因は不明のまま。
その間、実家で飼っていた犬の引き取り手を探すものの…
そう。
年齢も11歳と高齢な上、この
吠える
噛むこともある
という欠点があったため、引き取り手がなかなか見つからず、動物愛護センターに連絡するまで追い詰められた。
しかし、愛護センターに連絡しても、そこでも引き取りはしぶられ、こちらも積極的にはなれず決着はつかない。
犬に申し訳なくて、泣くばかりしていた。
そして私は連日の実家と病院の往復、犬の引き取り手が見つからないことのストレスによって、体重は34キロにまで落ち込んだ。
身長160センチ強で34kg
もともと太ってはいなかったが…
過去最低を記録した。
周り中から心配はされたが、私が踏ん張らないとどうにもならない。
夏期講習も始まって仕事も忙しかったが、一日も休まなかった。
8月半ば〜9月
しかし、やっとのことで犬の引き取り手を見つけることができて、一つの山を超えた。
父は結核が陰性と出て、退院の運びになるも…。
原因は不明のまま
動けない身体になってしまっていた。
そんな中で、同居の義母が認知症になる。
また腎臓が悪化、透析スレスレだとも診断を受けた。
また父は退院後のことが決まらず、ケアマネ、ソーシャルワーカー交えて相談するが、二進も三進も進まない膠着状態が続く。
9月〜10月
9月初め、私は健康診断の結果、大腸にポリープがあったため、ポリープを7つ切除した。
さて進退が決まらなかった父だったが、実家の地元の小さな病院では、埒が明かないと判断、叔母と相談し、私が住んでいる市の比較的大きな病院へ連れて行くことに。
そこで、やっと父を悩ませていた病名が判明した。
進行性核上性麻痺
10万人に1人という、難病指定の病気であった。
父は退院までの1ヶ月、その病院で薬を合わせてリハビリに励んだ。
その間、私は父の退院後の手配を実家と往復しながらすることに。
そして、義母の世話も徐々に増えつつあった。
10月〜11月
父の束の間の一人暮らしを、なんとか成立させることに成功。
無事に介護認定も下って介護度4になり、ケアマネ、ヘルパー、訪看、デイケアとフルに活用させることで、父があれほど願っていた一人暮らしへと戻ることができた。
もちろん、病気が病気なので、終わりの見えている生活だった。
ところが、そんな中、今度は息子が学校へ行く途中でSOS、救急へ。
これは、すぐに対処でき、通院することで解決したが…
家では、義母の認知症が少しずつ進み、
通帳、カード、家の鍵、保険証、介護認定証、などなど諸々の行方がわからなくなって紛失。
大騒ぎになる。
もう、笑うしかないくらい、一度に色んなことが押し寄せた。
その中で、10月28日、
ロシア語能力検定試験の受験を強行
する。
もうね、もう、本当はこれっきりにしようかな、と思いながらの受験だった。
受験前の勉強も不充分だったしね。
勉強の醍醐味なんて何もなく、まさに効率のみを考えて勉強した。
その様子はこちら
↓
12月〜1月
父は老健に入所。
かなり嫌がったが、もう一人暮らしの限界も近づいていて、正月を1人で越せないことは分かっていたので、懇願を重ねて入所してもらった。
義母の認知症は少しずつ進むが、日常が営めないほどではない。
ここで、やっと、一息つける状態になる。
私の体重も36kgまで回復し、まずまず、と思っていた…
ところに、
今回の爆弾が!
1月9日。
数日の下がらない熱に、心配した夫が救急へ私を連行。
そしたらそのまま
ER
ICU
もうね、なんのこっちゃ、と思うわけだ。
「えっと…そんなに良くないんですか…?」
「あなた、このままだと死にますよ。」
真顔で言われた。
この時点で血圧が60切っていて、色んな臓器がズダボロになっていたらしい。
詳細は省くが、まあ…
昼間に行った地元のクリニックを信じて、単なる風邪だと思って放置してたら、確実に死んでいた。
本当に運が良かった!
コロナでもインフルエンザでもない。
熱と頭痛、下痢のみの症状だったが、大きな病院に来て良かったと思った。
そして現在に至る。
とまあ、ざっくり私の約一年を振り返りました。
ここまで長々と読んで下さってありがとうございます!
いやー、事情が書けてスッキリした!←
今後はまた、いつものロシア語ブログ(プラスα)に戻って更新できると思う。
それでは、みなさん、
Удачи ‼︎
追記:ほぼロシア語オンリーのブログに復活するため、コメント欄も開けます。(需要があるかは不明だが)