1月3日生まれ | いずみ先生のひとりごと

いずみ先生のひとりごと

相模原市中央区東淵野辺(最寄駅;古淵)でピアノと音楽の個人レッスンをしている辻田いずみのピアノや音楽についてのブログです。

1月3日生まれの音楽家たち
お正月もいよいよ終わり。
明日から仕事の方も
多いかと思います。

気持ちも新たに
心身共に健康で
過ごしたいですね。

ワタクシも頑張りたいと
思います。
(ワタクシの仕事は
まだですがにやり)

では本日分をどうぞドキドキ

音譜ジョン
  (ジョン・ポール・ジョーンズ;John Paul Jones)
  1946年1月3日~(現在70歳)
  イギリス;シドカップ
  ミュージシャン。本名;John Baldwin

  伝説的であるバンド「レッド・ツェッペリン」の
  ベーシストである彼はピアノを
  やはり音楽家で合った父親から学びました。

  その勉強はジャズ、ブルースから
  クラシック(しかもラフマニノフまでビックリマーク)と
  いうから興味の度合いに驚かされます。

  そして14歳の時には
  聖歌隊のオルガニストも務めていました。

  その後ベースをも弾きこなすようになり、
  始めはジャズベースを
  ビッグバンドなどで演奏していたそうです。

  音楽活動が本格的になるのは1964年以降でしょう。
  ローリング・ストーンズやジェフ・ベック、
  ロッド・スチュワートらの
  セッション・ミュージシャンとして演奏しています。

  そしてやはり伝説的バンド「ヤードバーズ」との
  仕事でジミー・ペイジと親交を深め、
  それが後のレッド・ツェッペリンとなるのです。

  彼らの曲は単なるロックとは
  言い難いくらいの名曲が多くあります。
  その中でも「天国への階段」などは
  現在でも様々なミュージシャンらが
  編曲し演奏していますし、
  名指揮者であったカラヤンでさえ
  絶賛しているほどです。

  そのツェッペリンも1980年の
  ジョン・ボーナムの事故死で
  後任を決めず、
  解散してしまうことになります。

  さて、ジョンといえばその後もいや、
  ツェッペリン活動中でも
  スタジオ・ミュージシャンを
  辞めずに続けていました。

  自身のソロデビューはなんと1999年のこと。
  これだけ活躍し、キーボード、
  ベースはもちろんマンドリンや
  バンジョーまで弾きこなす彼にしては
  遅いデビューです。

  ツェッペリンに関しては
  再結成の話が幾度となく出ていますが、
  ジョンが消極的とのこと。
  しかし数度は故ジョン・ボーナムの息子を
  新たなドラマーに迎えて
  ツェッペリン名義で演奏しています。

  一番最近の活動は2015年11月に
  スイスで行われたライヴでしょうか。
  
  ホームページには
  フィンランドのミュージシャンとの
  インタヴューをしたという情報が載っています。

  余談。
  検索すると同じ名前の
  18世紀に生きた軍人さん及び
  ミサイル駆逐艦にばったり。
  そのミサイル駆逐艦は
  やはり18世紀に生きた
  その軍人さんから名付けたそうです。

  ジョン・ポール・ジョーンズ公式ホームページ【英語・音量注意】 
音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字 音符 デコメ絵文字
音譜日野元彦(ひのもとひこ)
  1946年1月3日~1999年5月13日(享年53歳)
  日本;東京
  ジャズドラマー

  日野家もミュージシャン一族
  (まるでバッハのようです)と
  言ってもいいかもしれません。

  彼の父親はトランペッター&
  タップダンサーの日野敏、
  兄はトランペッターの日野皓正。

  その父親の手ほどきを受けて
  タップを習得もしていました。

  尚美音楽学校在学中に
  既にバンドを組んでプロデビューします。
  このときのメンバーには
  兄の皓正もいたそうです。

  その後次々と活躍の場を移し、
  ついにはヨーロッパ・ツアーまで。
  1973年からはアメリカにも渡り、
  世界的にも名を知られていくようになります。
  1980年代には中国にも赴いて
  更に活躍の場を広げていきます。

  しかし1998年秋ごろから腹痛を訴え、
  痛み止めを服用しながらステージをこなし続け、
  翌年始めの検査入院で
  すい臓がんが発見されます。

  けれどもすでに手遅れで、
  本人の「死ぬまでスティックを握りたい」との
  意見を尊重し、スクールでの講師も
  亡くなる2週間前まで務めていました。

  最後には肩の骨が
  飛び出してしまうほど
  痩せてしまい、
  痛々しかったようです。

  そして1999年5月13日、
  肝不全でこの世を去ります。
  しかし正しく
  ステージに命を捧げた人生でした。