私のクリニックでは私だけでなくスタッフにもブログを書くことを義務付けています。

それはスタッフの成長のために役立つことだと確信しているから、スタッフには迷惑がられてもトップダウンで決めさせていただきました。



私が本を書いたりブログを書いたりして気づいたことは、人は書きながら頭の中が整理されてくるということです。

書き始めるまでは点であった知識が、書き始めることで線になっていくのです。


もちろんうまく書ける場合ばかりではありませんが、うまく書けない時には、なぜうまく書けないのだろうと考えるから成長するのです。

うまく書くということは、かっこいい文章を書くこととは全然違います。


いい文章とは自分の言い得たいことが相手に伝わる文章です。

小学生レベルの言葉で十分なのです。


「頭ではもっと色々考えているのに、文章や言葉にするとうまく伝えられない」ということを言う人が多いですが、伝えられないことは存在していない事と同じだと信じることから始まるのです。


学生時代みたいに、頭の中にあることが評価の対象にはなりません。

社会に出てからは、伝えられることが評価の対象なのです。

相手に伝える為に、書いたり、話したり、行動したり、色んな方法で思いを伝える訓練をしていかなければいけないのです。


その第一歩としては、書くことが一番いいのです。

話したり行動するには相手が発生するので、成長途中では自分のメッセージが他人に受け入れられないことが発生してくると、それが挫折の原因にもなってくるのです。


その点、書くことは、書き始めたときには頭が整理できていなくても、何度も修正できますし、日に日に書く内容が説得力のあるものになっていくものなのです。


「習うより慣れろ」ということわざがありますが、発信し続けていくうちに、伝える技術が向上してくるのです。


自分の思いを伝えることは、想像以上に難しいことです。


「人間関係は誤解を生じて当たり前」というぐらいの考え方でスタートすることで、伝える技術を磨くことに本気になれるのです。

普段、その人がどんなことに意識を集中して、何を考えているかということで、人間の価値は、決まるのではないかと思っています。


更に一歩進めると、どんなことを考え、その考えを相手に伝わるように整理でき、何らかの言動で形にしていくことが大切だと思っています。


ブログというのは、原石である自分の考えを、少しずつダイヤモンドにしていくことを手助けしてくれる手段だと考えています。

物事には何でも優先順位があります。

その優先順位の付け方で仕事の能率が変わってきます。

もっと言えば人生が変わってくるのです。



人間誰しも、自分なりに一生懸命生きています。

しかし、何に一生懸命がんばっているかで、出てくる結果に大きな違いが生じるのです。

英語をいくらがんばっても、数学や理科の点数は上がりません。

当たり前と言えば当たり前ですが、社会においては学校の科目のように、努力の内容において、明確な分類がされているわけではありません。

従って、日々何かを選び、何から手を付けていくかの判断で大きな違いが出てきます。

どうせ全部の仕事をするのだから、優先順位とか仕事の順番なんかどうでもいいと思っている人もいるかも知れませんが、必ずしも全部できるとは限らない、というスタンスで1つ1つのことを取り組むべきなのです。



お弁当は全て食べられると思うから、一番好きなものを最後にとっておく人もいますが、仕事のできる人は、一番好きなものから食べていくのです。(笑)

途中でおなか一杯になることもありますし、何か急用ができてしまうこともあるのです。


仕事においても、その時の状況を考えて一番やらないといけないことから手を付けていくべきなのです。

そしてできないこと、優先順位の低いものを切り捨てる勇気も時には必要になってくるのです。

1日は24時間で、自分でできることにはどうしても限界があります。

その時に、何が重要で何が重要でないかを考える習慣が物事の優先順位を付けさせてくれ、何かを捨てる勇気を与えてくれるのです。



以前「断捨離」という言葉がはやりましたが、何かを得るためには何かを諦めなくてはならないものです。



自分はどうなりたいのか?何を得ようとしているのかで、捨てるべきものが決まってくるように思います。

オリンピックを目指している人は、多くのものを捨てています。

捨てることが目的ではありません。

「何かを得たい!!」「こうなりたい!!」という強い気持ちがあるから捨てる事にも迷いがなくなってくるのだと思います。

自分はどんな人生を歩みたいと思っているのかを自問自答して、それに見合ったものを意識して捨てていきたいと思います。

「企業は人が全て」と言われていますが、当クリニックでも人材教育には最大の投資をしています。

投資というのはお金だけでなく時間もエネルギー、情熱も含めてかなりの時間をつぎ込んでいます。



仕事とは、「誰かの役に立って、相手に喜んでもらう行為」である以上、その行為には「心や思い」が伴わなければ、仕事の役目をなしません。

作業のやり方を教えていくことは簡単ですが、「思いや情熱」を伝えていくことは簡単ではありません。


当クリニックの人材のレベルは、歯科医院の中ではかなり高い方だと思っています。

当クリニックの最大の売りが「人材レベル」にあるとさえ思っています。

しかし、今の人材も放っておけば、ただの人か平均以下のレベルの人に戻ってしまうと思っています。



人を採用する時に「いい人材」を採用したいと思っていますが、「いい人材」というのはあくまで素材であって、いい人を採用すればあとは勝手に「いい人材」になっていくわけではありません。


面接で「いい素材」だと思って採用しても、そこから手塩にかけて育てて本当の「いい人材」に育つまでに何年もの月日がかかります。

そうして「いい人材」に育っても、そこで安心して野放しにしてしまう

と、あっという間に「ただの人」「ズルい人」に戻ってしまいます。

人の成長にゴールはないし、気が抜けることもないような気がします。



これは自分自身の成長も同じです。

「もうこのぐらいでいいのではないか」と、気を緩めて安心した瞬間に、自分勝手な自己中心的な人間に戻ってしまします。



人というものは基本的に無意識で生きていれば「自分勝手」で「ズル」くて「楽をしたい生き物」だけど、無意識ではなく、意識して「挑戦」したり、「感謝」したり、自分の理想や夢と向かい合うことによって、ズルい自分をコントロールしていくことができるのだと思います。





 

 

 

 

 

社員教育をしていく際には、技術的な「やり方」教育と、考え方、生き方の「あり方」教育の2つを同時進行させなければなりません。

「やり方」教育はどの会社でも行います。

学校で言えば、「勉強」を教えない学校はないのと同じです。

仕事においての「技術」を身につけてくれれば、会社にとって戦力になります。

学校において「勉強」ができれば、試験でいい点数がとれます。


一方の「あり方」教育というのは、技術や勉強のように明確な1つの答えがあるものばかりではない場合が多いです。

1つの出来事に対して、見方、考え方によっては正解にも不正解にもなる様なことを、伝えていかなければなりません。


例えば、学校において,校則で決められている場合に「なぜ髪は染めてはいけないのか?」と生徒に聞かれたら、先生や親は自分なりに考える答えを用意して生徒や子供に伝えていかなければいけませんが、勉強のようにすべての生徒が納得するわけではありません。



職場においても、例えば、電車の遅延証明書を持ってきた社員に、毎回、遅延証明書を持って来れば遅刻が正当化せれるのか、それとも電車は、多少遅れることを前提で運行しているもので、10分や15分遅延しても遅刻にならないような想定をして家を出るのが社会人なのではないかということを伝えていかなければなりません。



学生時代の遅刻は、自分が遅れて自分が授業に参加できないのだから、自分の問題になります。

しかし、社会人において、遅刻するということは、お客様や同僚に迷惑をかけるということになるのです。

自分がした失敗で、自分が損をするのであればある程度は「次からは気を付けてください」で済みますが、周りの人に迷惑をかけているのであれば、学生時代以上に重く受け止めてもらわなければなりません。


学校におけるやり方教育は、道徳教育のようなもので、「いくら勉強やスポーツができても、人間として価値がなければ社会では通用しないですよ!!」ということですが、多くの場合、社会に出てから痛い目にあって、改めて「あり方」を学んでいかざるおえないように感じます。


一方、社会に出て、あり方教育のみをしていると、経験年数が増えるにつれて、「自分はできる(方だ)!!」という勘違い人間を量産してしまうことになってくるのだと思います。

仕事の技術は経験年数で比例してきますが、「やり方」教育は年齢とは関係ないような気がします。



答えのあるやり方は割と簡単に教えることができますが、答えが一つではないあり方は、本人が気づかなければ永遠に気づけないと思います。


勉強や仕事ができないことは自分も自覚できますが、みんな自分の「あり方」は普通だと思っているので、自分の「あり方」に問題があることを自覚できる人はほとんどいないと思います。


当クリニックでは、あり方教育に力を入れているので、賞与の際にスタッフ同士でお互いのあり方を点数化して、あり方を見える化しています。

当クリニックの社員レベルが高いと言われるのは、このあり方教育の仕組化にあると思っています。


「やり方」教育というのは、考え方や生き方を同じ方向に向けていくということで、一朝一夕には身につきませんし、教える方も日々、自分の生き方、考え方を正していかなければならないのです。


大人のあり方教育はとても難しいですが、難しいからこそ、やりがいも感じますし、そこに力を入れていくことで他の医院との大きな違いを打ち出せるのだと思っています。


人は誰しも過ちを犯すし、失敗しながら学んでいく生き物だと思う。

しかし、自分の失敗では自分を強く責めて過度に落ち込み、他人の失敗では、相手の失敗を過度に追及してしまう傾向にあるのが人間なのだと思います。



そして、自分の失敗へのとらえ方と他人の失敗へのとらえ方には相関関係があるように思います。

それは、他人の失敗を許せない人ほど、自分が失敗した時にも同じように自分が他人から責められているように感じてしまい、強く自分を責めてしまいがちになるのではないかと思うことがあります。



人生は、「鏡の法則」「自分の先入観で周りの見え方が違ってくる」「与えたものしか手に入らない」など、結局は自分の思いが目の前の形になって現れたり見えてしまう、という現実があります。



自分も失敗するし、他人も失敗します。

そんな時、他人の失敗を許せる人間に近づいていくことが自分の失敗で過度に落ち込まないで済む唯一の方法なのではないかと考えるようになってきました。



そうはいっても、どうすれば他人の失敗に寛容になれるのだろうか?と考えた時、例えばその人のした失敗が自分にとって無関係の時には寛容になれますが、自分に損害を与えたり、自分の中での非常識なレベルのことだったりすると、どうしても怒りという感情が優位に立ってイライラしたり感情的になってしまいます。

感情のスイッチがいったん入ってしまうと、なかなか簡単にはスイッチを切ることは難しいものですが、「他人を責めれば責めるほど、それは必ず違う形で自分に返ってくる」と信じることで、感情と一致してしまって自分の思考を客観視することができて、少しは他人の失敗に寛容になれるような気がします。

一方で、「許すことの大切さ」の逆の見方として、他人の失敗に寛容になることと、他人の失敗を見過ごすこととの違いは何なのか?という疑問が湧いてきました。

野球でミスをした人間に「ドンマイ、ドンマイ」という背景には、「お前のミスも責めないから、俺のミスも責めないでくれよ!」という甘えの気持ちの「許し」があります。

こんななれ合いのチームでは、決して強いチームになっていくことはないでしょう。



当クリニックにおいても、「これぐらいのことを注意して自分が嫌われたくない」と思っている社員はいます。

「許す」ことと「なれ合いにする」ことの違いは「利己」か「利他」の違いではないかと感じます。

相手にとってや自分のチームにとって必要なことを言うべき時に言えなくて「ドンマイ、ドンマイ」と自分のミスをした時の保険を用意している人間は、完全に「利己的」な人間ですが、相手が十分反省している状況で、自分の感情のはけ口として感情的に相手を責めることを自粛したり、自分に矢印を向けることで自分に何ができるかを考える人は「利他」的な人間だと思います。



「許す」ことが善で、「注意すること」が悪なわけではありません。

「怒る」と「叱る」は違うとよく言われますが、自分の感情のはけ口として感情的に叱ることを「怒る」といい、相手をよくしてあげたいという気持ちから発するものが「叱る」なんだと思います。



そうは言っても、「怒る」気持ちが100%、「叱る」気持ちが0%、などという極端なものではなく、自分の気持ちは51%が「怒る」気持ちなのか、それとも「叱る」気持ちなのかと、どちらの気持ちを意識して相手に伝えようとしているかということを俯瞰してみていくことが大切なのだと思います。

人間は不完全な生き物だから、完全な行いはできないでしょうが、自分の行為は「なれ合い」なのか「許している」のかを意識しながら生きていくことで、本当の「許し」を習得できるような気がしています。



利己のために見て見ないふりをする「偽の許し」をいくら重ねても、その人は永遠に人を許せる人間にはなれないと思います。



人を許せる人間になるためには、優しさだけでなく強さも必要なんだと思います。