私はクリニックのトップとして社員をまとめていかないといけないので、自分が出来ていない事でもみんなに指示していかないといけません。

以前は、自分が出来ていないことを社員に伝えていくことにすごく抵抗感がありました。

 

実際、社員が後輩の指導をしていく時に「自分ができていないことを、後輩に偉そうに言っている自分が嫌になるから指導は苦手だ!!」ということを何度も言われました。

自分の経験から、そういう意見を言われた時にはいつも「『自分が出来ていないことは後輩に指導できない』というのであれば、大学を卒業しても誰も先生にもなれないし、子供を産んでも誰も親にもなれないのではないか??」ということを言っています。

「今自分が出来ていないから言えない!!」のではなく、「自分はそうなりたいという気持ちがない、というのなら言ってはいけない」と思っています。

 

私は患者様に不快な思いをさせないために、組織を守っていくために、自分が出来ていない事でも伝えていく義務があると思っています。

学校の先生も親も「子供たちを立派な人間に教育したい!」という使命感や責任感があるのであれば、自分が出来ていない事でも言うべきだと思います。

 

私も若い時には、「自分はできているんだ、すごいだろう!!」という、自分が優越感を感じるために上から目線で自慢するためにそういう発言をしていたのかもしれません。

しかし、組織をまとめる立場になった今は、「自分もできていないけど偉そうに言って申し訳ない気持ちもあるが、自分もそういう方向を目指すので一緒に目指してほしい!!」という気持ちから伝えるようにしています。

 

そういう状況を繰り返していくうちに気が付いたことがあります。

「できるようになったらみんなに言う!」というスタンスの成長速度と「できるようになる前にみんなに言う」成長速度では、明らかに「できるようになる前に言う」方が何倍も成長が早いことに気が付きました。(感覚的には10倍ぐらい)

「子育ては親育て」と言われますが、子供を教育しながら自分が一番教育されているのだと思います。

 

「不言実行」という言葉がありますが、誰にも言わずに自分の心に留めておけば誰からも責められることはありません。

しかし「有言実行」になると、自分が言った言葉をみんなが監視することになります。

みんなから「発言と行動が違うじゃん!!」と陰口をたたかれたくなければ、自分が発言したような行動をしていかなければなりません。

それは自分自身に強いプレッシャーを与えることで、自分の行動が意識的になってきます。

 

人間はみんな感情に流されたり、楽をしたい本能があります。

それを制御してくれるのが、「出来る前に言ってしまう」ことかと思います。

 

私の尊敬している人が言っていました。

『「英語が喋れるようになりたい」と言って英語が喋れるようになった人はいない。「英語を喋れるようになります」と言いなさい。もっとできる人は、喋れるようになる前から「英語が喋れるようになりました」と過去形で発言しているよ」』

 

この3つのそれぞれの発言で、自分へのプレッシャーが全然違ってくると思います。

 

「楽をしたい!」という本能に打ち勝って成長していくためには、自分にプレッシャーを与えていくしかないのではないではないかと思っています。

 

 

 

人は頑張るためには「頑張る理由」が必要だと私は思っています。

 

若い時には「異性にもてたい」「お金持ちになりたい」「周りから評価されたい」など自分勝手な理由でも頑張ることが出来ました。

しかしながら、52歳になって人生も後半戦になってくると、若い時の自分中心の「頑張る理由」では、心のやる気スイッチがONにならないのとを感じます。

若い時の「頑張る理由」は、自分勝手なものでも仕方のないような気がしますが、年を重ねるごとに「頑張る理由」を利他の方向や社会的な貢献に方向転換していかなければ、今の恵まれた日本では、継続的に頑張れない人が多いようにも感じます。

 

以前、千利休が石田三成に「豊臣家の存続のために庶民がいるのですか?それとも庶民のために豊臣家が存続するのですか?」ということを問うていた場面がテレビでありましたが、「うちのクリニックが存続するためにスタッフや患者様がいるのですか?それともスタッフや患者様のためにうちのクリニックが存続しているのですか?」ということを自分自身に問うた時にどちらを選ぶかで、私の行動は変わってくると思います。

 

「うちのクリニックが存続するためにスタッフや患者様がいる」という考えで経営していけば、社員も患者様の心も離れていきますが、

「スタッフや患者様のためにうちのクリニックが存続している」というスタンスで経営していけば、結果的に社員や患者様がうちのクリニックを存続させてくれます。

 

経営ではよく「信用が先、利益はあと」ということを言われます。

利益が出なければ会社は倒産しますが、その利益をねん出するためには「信用」してもらう言動を積み重ねていかなければなりません。

 

自分の存在理由やクリニックの存在理由は、社員や患者様が評価するものだと思います。

 

誰しも自分がかわいいのは本能ですが、その気持ちを抑えながら生きていくことで、まわりまわって自分にもご利益が来ることを信じて生きていけるかが試されているような気がします。

人格者は、まわりまわってくるご利益さえも期待しないのだと思いますが、いつかはそういうレベルに達することを期待しながら、今の自分は急がば回れで、「頑張る理由」を「利己」から「利他」の方向や「社会的な貢献」に方向転換していくことを意識しながら生きていきたいと思っています。

 

日々の日常において、感情の力と理性の力を俯瞰しながら物事にあたっているような気がします。

「人間は感情の動物」と言われていますが、何事においても最初に感情が動きます。

「めんどくさいなぁ~」「ラッキー」「お腹すいたなぁ」「あっ、きれいな人だ!(笑)」など心が動くからそれに伴った行動をします。

「面倒くさい!」と感じれば、面倒くさい言動が続きます。

「ラッキー!」と思えば自然と軽やかな身のこなしになります。

 

人は目の前の出来事に「意味付け」をして、感情が動きます。

「雨が降ったらついてない」「ひいきのスポーツチームが勝てばついている」「財布を落とせばついてない」いろんな出来事に意味をつけて感情にスイッチが入ります。

「ついてない」と思えば、気持ちは沈みます。

「ついている」と思えば感謝の気持ちが芽生え、笑顔が出ます。

出来事に「意味付け」をして「感情にスイッチが入り」感情に合った「行動」をして流されていきます。

 

この一連の流れの中で、自分でコントロールできるのはどの部分でしょうか?

 

出来事に対する「意味付け」は、これまでの先入観や思い込みによるものなので簡単には変えることが出来ません。

雨が降るとほとんどの人は条件反射で「ついてない」と思うけど、農家の人は条件反射で「ついている」と思うと思います。

同じ出来事への「意味付け」は、それまでの経験や環境で決まってくるので、簡単に変えることはできません。

 

「意味付け」を変えることが出来なければ、それに伴う「感じ方」を変えることもできません。

「感じ方」を変えることは出来なくても、そう「感じている」その瞬間の自分の感じ方を俯瞰して気づくことはできます。

自分の「感じる」ままに流されてしまうと、簡単に「感情にスイッチが入ってしまいます」が、自分の感じ方を俯瞰できれば、感情にスイッチが入ることを予防できます。

今の自分は「感情に流されそうになっている」ことを俯瞰できれば、行動を変えることで軌道修正ができます。

 

「人は悲しいから泣くのではなく、泣くから悲しくなるのだ」と言われていますが、悲しいという感情に流されれば泣くのが自然になりますが、自分の悲しい感情を客観視できれば、その後の行動は「泣く」ことも「笑う」ことも自分の意志で決めることが出来ます。

「失意泰然」という言葉がありますが、辛い時こそ、無理してでも明るくふるまうことで未来が開けてくるのだと思います。

 

感情をコントロールすることはできませんが、行動はコントロールできます。

出来事のきっかけは、心が動くこと、感じることがスタートかもしれませんが、最終的に行動するのは自分の意志で決めれます。

泣けば悲しくなりますし、笑えば嬉しくなります。

「ついてない」と思えば、投げやりの言動になりますし、「ついている」と思えば前向きな言動になります。

 

「出来事は1つ 受け止め方は2つ」と言われていますが、自分はどんな未来を望んでいるのかで、どういう受け止め方をした方がいいのかが決まってくるように思います。

 

感情に流されて行動していれば、人生はみんな同じ不幸な結果になってしまいます。

幸せになりたいのであれば、今の感情に流された言動をするのではなく、自分が望む未来に合った言動をしていくことが大切なんだと思います。

 

スタートは感じることでも、ゴールは理性が決めていくことが、明るい未来を切り開いていくのだと信じています。

 

当クリニックでは朝礼やミーティングや面談などのコミュニケーションを大切にしています。

朝礼やミーティングなどでは、私の考えやスタッフの考えを言葉や文章にしてもらっています。

 

頭の中にあることを文章や言葉で言語化していくことで、無意識に存在していた知識や経験を意識下に引き上げてもらいます。

人は多くのものを、無意識化に眠らせています。

無意識化にあるものを意識下に引き上げるためには、記憶の領域から感じる領域、考える領域に移動しなければなりません。

 

より深く感じたり考えてもらうために、自分の言葉で書いたり話したりして表現してもらいます。

いったん意識下に引き上げられたものは、自分の引き出しに入り、自分が使いたいときに使用できるようになってきます。

 

そうやって意識下の引き出しに入れなおして、初めて自分の知恵になるのです。

知識は借り物です。

知識を知恵に替えていくためには、自分で言語化していかなければならないのです。

 

当クリニックで、朝礼やミーティングなどでコミュニケーションの時間を多くとるのは、無意識を意識に替えて、知識を知恵に替える以外にもう一つの目的があります。

それは感情に流されない生き方をしてほしいという思いがあります。

 

人間は感情の動物です。

無意識に生きていると感情に流されてしまいます。

感情的に決めた判断は、多くの場合、悪い結果に結びつきます。

往々にして、自分の失恋は冷静な判断ができませんが、他人の恋愛相談には的確な回答を出せます(笑)

 

感情に流されないで理性的に生きていくためには、無意識で生きないで、意識しながら生きていかなければなりません。

無意識に感情に流されそうになった時に、意識的に理性が働いて感情にストップをかけるためには、普段から損か得かに流されないで、何が正しくて何が間違っているのかを意識しながら生きていくことが大切だと思っています。

 

日常で理性的に生きていくことで、感情的になりそうな時にブレーキが利きやすくなってくるのだと信じています。

 

社員教育と子育てをしていて感じることは、教育とは「教える」ことではなく「気づかせる」ことだということです。

 

社員にしても子供にしても、自分は当たり前にできるやり方や考え方ができない時に、「あーすればいい」「こーすればいい」と教えることは簡単ですが、表面的なことは教えることができても、深い部分では自分で気づかなければ、将来的には使い物にはなりません。

「あーしなさい」「こーしなさい」で解決するレベルのことはそれで問題ありませんが、命令するだけでは相手が理解できないとか従わない時には、相手に気づかせる工夫をしていかなければなりません。

 

教育とは、相手にいやいや行動させることではなく、自ら行動したくなる気持ちにさせることであり、どうやって相手の心を動かせるかだと思います。

 

「教える」ことは自分の知識を相手に伝えればいいので知識でできます。

しかし「気づかせる」ためには、相手の気持ちにならなければどうやって伝えていけば気持ちが動くかが想像できません。

「教える」ことは自分目線でできますが、「気づかせる」ことは相手目線でないと不可能です。

 

頭のいい人は「教えること」は得意かもしれません。

しかし、「気づかせる」ことができる人は、相手のことを思いやる気持ちがなければ気づかせることは難しいです。

 

子育てにおいても、大人の視点からすれば、大人よりも未熟な子供に教えることは簡単です。

大人だって、いろんな失敗を経てから気づいたことを、結論だけを子供に教えようとして子供から反発を食らいます。

 

一般的に親になると、自分の子供は可愛いから、失敗させないで結論だけを学ばせようとしますが、そんなことは不可能なのです。

「かわいい子には旅をさせろ」という諺がありますが、親はついつい「転ばぬ先の杖」で子供に転ばないように転ばないように教育しようとしますが、転ばなければ気づかないことの方がほとんどなのです。

 

親や上司ができることは、転ばないようにすることではなく、転んでもそのあとに勇気づけてあげる準備をすることなのではないでしょうか。

転ぶかもしれないけど、ちゃんと見守っているから、転んでもいいから思い切って挑戦しなさいという気持ちが大切なのではないかと思います。

もちろん、転んでかすり傷で済むのか、骨折するのか、取り返しのつかない事故になるのかやってみなければわからない部分もあります。

 

教育する方も胆力が試されるのです。

 

子供が誘拐されて、「警察に言ったら子供を殺すからな!!」と犯人から脅迫されて、警察に言わないほうが子供の生存率が高いと思うのか、警察に告げた方が、生存率が高いと思うのかはその親の判断になりますが、親として結果にとらわれるのではなく、覚悟を決めていずれかを選択するしかありません。

 

子供にとって大切なことは、目先のケガではないはずです。

社会に出て強く生きていくために、今をどう生きていくかという事なのです。

あくまで社会に適応できる人間にしていくことが目的なのです。

 

この歳になって思うのは、優しかった先生や先輩よりも厳しくしてくれた先生や先輩の方が記憶に残っているし、自分の今につながっているということです。

 

親は「転ばぬ先の杖」を目指すのか、覚悟を決めて「かわいい子に旅をさせるのか」の胆力が試されているのではないかと思います。

 

教育とは「いま」のためにするものなのか、「未来」を見据えてするものなのかは、常に意識しておかないと目先の結果に流されてしまうのが人間の弱さなのだと思います。