治療やリハビリも進み、そろそろ仕事を探さなければと思っていたところ、新聞で懐かしい顔を発見しました。以前努めていた外資系の半導体用検査装置メーカの元同僚達が興した会社が名証セントレックス市場で株式の公開を果たしたというニュースです。
さっそく、その会社のホームページを調べ、常務取締役になっていたT氏に連絡を取り、T社長とも再開をして、しばらく置いていただくことになりました。こうして私は2005年12月の始め、知り合いの会社に居候という形で1回目の社会復帰を果たしました。
その当時は未だ病み上がりの身でしたが、快く迎えてくれた彼等にはとても感謝しています。
その会社の仕事でとても印象に残っていることがあります。2006年の4月から、韓国からのエンジニア4人のグループと一緒に、東北のある街のビジネスホテルに泊まりながら半導体製造装置の立ち上げ作業に携わりました。実際の装置の立ち上げ、調整は韓国人のエンジニア達が行って、私はその現場監督と片言の英語を介しての通訳、お客さんとの交渉役という役割でした。韓国人のエンジニアのリーダーは流ちょうな日本語をしゃべることができましたので、通訳の仕事は殆ど必要なく、引率の先生のような役割になりました。
装置の立ち上げ作業は、何度かに及びトータルで4ヶ月ほど彼等と仕事をしました。2006年当時は、半導体の世界市場規模が2,500億ドルになり、日本メーカの市場占有率が北米地域に次ぐ第2位の地位にあり、その額はその他のアジアの総計よりも大きな状況でした。
しかし、好不況を繰り返しながら拡大を続ける半導体市場の中にあって、日本メーカの市場占有率は1980年代の終わり頃をピークに一貫して下げ続ける、いわゆるじり貧状態にありました。
その当時、日本に代わって力を付けてきていたのが韓国勢でした。その当時既に、韓国=サムスン電子と言ってよい状況になっていたと思いますが、伸び盛りの国からやって来たエンジニア達の元気の良さとチームワークの良さには感心しました。
毎朝、お客様の工場に行き、現場に入る前にミーティングを行います。このミーティングは韓国語で行われるので、私は後でまとめを聴くまで何が話されているのかは判りませんでした。しかし、毎回、必ずもめる。いつも若いエンジニアがリーダーに不満をぶつけ、激しく口論が始まりました。廻りには他の業者の方達もいたのですが、端から見ると、いつも喧嘩をしているようでした。
そのくせ、ミーティングが終わると何事も無かったかの様に、チームワーク良く作業が始まります。彼等はとても良く働き、着々とスケジュールをこなしてゆきました。その姿を見て、半導体産業で日本が韓国に追い抜かれるのはそんなに先の話ではないということを実感しました。
一日の仕事が終わり、滞在先のホテルに戻ってからはそれぞれ自由行動になりました。私はたいてい一人で食事に行きましたが、時々彼等の食事に誘われました。そんな時には彼等は一段と快活になり、よく食べ、よく飲み、そして良く笑いました。彼等との風変わりな共同生活からエネルギーを貰って、私自身も急速に元気を取り戻して行きました。
( 目次にもどる )
いつも応援ありがとうございます。



にほんブログ村