2005年から2006年、そして2007年と3年連続で急性心筋梗塞を発症し、カテーテル手術を受けました。
最初は2005年の5月5日の子供の日のことでした。当時私はビンテクノロジーズという技術コンサルタントを個人事業として営んでいました。1986年に神戸商船大学(現在の神戸大学海事科学部)の大学院修士課程を修了した私は、大手精密機器メーカH社の八王子工場から社会人生活をスタートしました。仕事の内容は半導体用フォトマスクの生産技術や品質保証に係わるものでした。
半導体用フォトマスクというのは、LSIやICなどと呼ばれる、半導体チップを製造する際に、ステッパーに搭載してウエハー上に回路を焼け付けるための原板、少し昔の写真で言うところのネガのようなものです。ガラスの板の上に金属の膜で回路が描かれています。
半導体用フォトマスクはいつの時でも、その時の最先端の技術を使って微細で高精度な加工で製造されています。
1995年から5年間は外資の半導体検査装置メーカの日本法人で働きました。この分野では全世界で圧倒的なシェアを持つトップ・メーカで、その当時最新鋭であったフォトマスク検査装置の日本でのアプリケーションサポート業務でした。そして、2000年10月に独立して技術系コンサルタントとして日本の大手電機メーカN社で装置開発のアドバイザーの仕事を始めました。
2005年の5月といえば、その年の3月でこの仕事が終了となり、次の生活の糧を探しながら不安な日々を送っている時でした。技術コンサルタントとして5年のキャリアを積んできたとはいえ、実質的には身分が不安定でその分だけ、報酬が高いサラリーマンのようなものでしたから、半分途方に暮れながら仕事を探していた時期でもありました。
また、それまでの不摂生な生活で、体重が80キロを超えてしまい、健康にも良くないと感じたので、自宅の近くのフィットネスクラブに通い、汗を流して体重を減らす努力をしているときでした。
5月5日も午前中からフィットネスクラブに行き、マシンジム、そしてその後の水泳といつものメニュー通りのトレーニングをこなしました。
トレーニングの後も、いつも通りサウナで汗を流しました。体重の増加を気にしていた私はいつもよりも長い時間サウナに入っていました。 サウナの後は、いつもならば水分補給をするところでしたが、この日は家に帰ってビールを飲もうと思い、水分補給をせずに喉の渇きを覚えながらも午後1時ころに家路につきました。
私の自宅は50mほどの高さの丘の上にある5階建てのマンションです。 東に向いたバルコニーからはみなとみらい地区やベイブリッを望むことができ、この眺めが気に入って2000年に購入しました。
駅前のスーパーに立ち寄って買い物をして、自宅への坂道を登って行きました。 坂を上り始めて直ぐに突然、身体に力が入らなくなり、冷や汗が出てきました。 それでも無理して登ろうとすると、心臓の鼓動が早くなり、時折心臓がシャックリをしたような不整脈が出るようになってきました。
それでも数十メートルを歩き、自宅のマンションが見える最後の急坂のところまでたどり着きました。しかし、そこから先は坂道を登れなくなり、ついには道端に座り込んでしまいました。
数分のあいだ座っていると、心臓の鼓動は多少収まってきました。その一方で身体の力は益々入らなくなり、その場に横になってしまいたい気分になってきました。 坂道から崖下に人やクルマが落ちないように設置されたガードレールを背もたれにして寄りかかり、ほとんど動けなくなってゆきました。
坂の上のマンションのエントランスを見ると、白い軽ワゴン車が止まっていました。運転席の窓ガラスの下には赤い郵便のマークが付いていました。
郵便局から委託され郵便物の配達をしている運送会社の軽ワゴン車のようでした。 待っているとこの坂を降りてくるかもしれないと見ていたら、予想通り、そのクルマは坂を下りてき来ました。
ガードレールにもたれ掛かるようにしたままでそのクルマに手を振ると、運転手が気がついてくれて、クルマを降りてきてくれました。 運転手は30代くらいの女性でした。
事情を話して、坂の上のマンションまで乗せていって欲しいと頼んだら、快くクルマに乗せてくれました。マンションのエントランスまでクルマで運んでもらって、さらに3階の自宅まで一緒にきてもらいました。 自宅に戻れた私は、水を飲んで少し落ち着くと思いましたが、水を飲んで安静にしていても、症状はなかなか良くはなりませんでした。この日は休日だから病院も休みなので、念のために休日診療所に連れて行って貰おうと、救急車を呼んで貰いました。
救急車はほんの5分ほどで到着したようですがそれまでの時間がとても長く感じました。
救急隊員の方が自宅に入ってこられたので、郵便配達のお姉さんに御礼を言って、もとの仕事に戻って貰いました。
その後私は簡単な身支度を調えて、部屋の鍵を閉めて救急車に乗り込みました。救急車中のベットに横になって、心電図を撮られました。その波形を見て救急隊員の方は大方の予想がついていたのでしょう。休日診療所ではなくて、ちゃんとした病院に行かなければダメだと言うことを告げられました。そして、救急隊員同士で、“あそこの病院はもう開いているのだろうか”などと、会話をしていました。
やがて、消防本部と病院との調整がついたようで、救急車は走り出しました。窓は白くブラインドを施されているので外の景色を見ることはできませんでしたが、坂道を下ったり登ったり、カーブの方向などで、救急車が首都高速狩り場線に入って行ったことは判りました。
やがて救急車は病院の救急患者用の入口に止まり、ストレッチャーに乗せられて中へと運ばれてゆきました。
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