宮崎駿監督の風の谷のナウシカを見ました。


久しぶりに見たけどいい映画ですね。



そう言えば、

宮崎駿監督があるインタビューで

作品作りについて次のように語っていました。



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宮崎駿によれば、

そこへ深く潜っていく過程のある瞬間に、

「蓋が開いて、それまでとはまったく違うアイデアやヴィジョンが解放される」

そして、そこから映画をつくり始められるのだという。


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監督の言うことが

少しだけ分かります。



自分の頭で考えたというより、

ある領域からアイデアやヴィジョンが

降りてきた経験があるから。



考えてつくれるものではない。

努力で出せるものでもない。



だけども、

「知っている」という前提を受け入れる時、

それを引き出すことができます。



先日投稿した、

「自己一致」の投稿内容ともつながるんですよね。





肉体をもつ人間だけど、

可能性は肉体だけにとどまらず、です。




そういえば昔の携帯は、

本体が機能ものものでしたよね。



でも、今は通信🛜をメインに使っています。



それと同じで、

人間も身体という枠を超えて、

その先につながれるようです。



しかも、使うほどその機能は高まります。

(通信速度が上がるのかも)



新しい時代は、

これまでの延長ではなく、

次元を越えるようなものになりそうですね。



これまでの枠や常識に縛られることなく、

解き放しちゃいましょうー♪





「価値があると証明する」のをやめて、
「価値がある」ことを前提に生き始める


何かを足すことで

価値を高めるのではなく、

何も足さなくても価値がある。


そこに一寸も疑うことなく信じれば、

それは事実となる。



前回の投稿、「自己一致」には、

そのような気づきがありました。



今まで信じてきたことが、

実は逆だったわけです。


ぼくを含め、

多くの人は何かを足すことで

自分の価値が高まると信じてきましたよね。



お金、社会的地位、名誉、人脈、


など。


それらを多くもつ人を

「成功者」と世間は評価し、

みんなはそれをゴールとして目指します。



この考えはどこから始まったのでしょう?



きっと、

ものごとを学び始めたころからのようです。



よくできました💮


はなまる❗️



出来がわるければ、


もっとがんばりましょう!





親や先生から評価されれば嬉しい。



褒められると、

それが愛情だと受けとる。



周りの評価=愛される実感





ものごころを覚え始めるところから、

周りから評価されることで、 

安心できると共に、

愛されたと実感を感じてきたようです。




それが、

わるいことだとは言わない。



多くを学び、

学びから活かせることはあるから。



ただ、

自分がどう感じているかを見ることなく、

周りの評価ばかり気にするようになると、

人生を生きていながら、

その実感は希薄なものになるだろう。



なぜなら、

自己一致とはかけ離れたことをしているから。




自己一致についてもう一度書こう↓


何かを足すことで

価値を高めるのではなく、

何も足さなくても価値がある。


そこを一寸も疑うことなく信じれば、

それは事実となる



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前々から、

やろうとしてきたものがあります。


準備もほぼできました。



いよいよやろうとする段階ですが、

それは何のためにやるのか?


という問いを持てた意味は大きい。



やることを通して、


お金、地位、名誉、人脈


など外から評価を得ることで

自分を満たそうとするのか?



はたまた、


内から湧いてきたものを

表現することを目的とし、


表現した結果として、

外からの評価が付いてくるのか。



ここは似ているようだけど、

まるで違う。



それは、周りの人からは見えないもの。



本人が自己一致から始めているのか、


もしくは、

外からの評価を高めることで、

いつか自己一致は高まるものだと思い込み

延々、そのループにはまるか。




初めから内面が満たされた状態なのか?

それとも

不足を埋めるためにやるのか?



自分はなぜそれをやるのか、

観察してみてはいかがでしょうか。







昔の映画スターとか見ていると、

一枚の写真から「凄み」を感じます。



古い映画を見て

そう感じたことはありませんか?



近寄りがたい風格。


ずっしりとした貫禄。


佇んでいるだけで感じるオーラ。



多くの人がその人を見て

同じように感じますよね?




でも不思議なのは、

背格好もそれほど違わない。



目鼻立ちは整っているとはいえ、

それだけでは風格が表れるものでもない。



じゃあ、

あの凄みはどこから来るのだろう。



分かりますか?



ぼくは分からなかったので、

AIに尋ねてみました。



すると、興味深い回答を得ました。



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凄みは、足し算より引き算なのかもしれない。


本当に凄みのある人は、

自分を大きく見せようとしない。


声を張らない。

威圧しない。

認めさせようとしない。



むしろ、余計な自己演出がなく、

ただ自然にそこにいる。


自分が感じていること、

考えていること、

言葉、行動、身体が一致している。


だから、何も足さなくても

その人自身が伝わってくる。


凄みとは、何かを身につけた姿ではなく、

余計なものを削ぎ落とした先に現れる

「自己一致」なのかもしれない。



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ぼくらは何かを足すことで、

自分を大きく見せようとし、

価値を高めようとします。


でも、本当は逆だったんです。



何も足さなくても価値がある。


大きく見せる必要はない。


自分は素晴らしい存在だ。

そう信じて疑う余地など微塵もない。



自己一致した人の内側から

光が輝き、外へ向けて放たれる時、

見た人は凄みを感じる。



足りないものを足すのではなく、

すでに在る、

もっていると確信すれば、

それは事実となる。



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8月13日は皆既日食。


足りないものはない。

全てもっている。


今回の皆既日食は

自己一致に向けるタイミングのように思います。