静岡県浜松市にある、

スズキ自動車の歴史館に行ってきました。



オートバイや自動車を製造する以前は、

機織り機の事業をしていました。



トヨタ自動車も車づくりの前は、

機織り機で事業を営んでいました。


同じルートを辿っているんですね。




乗り物としては自転車にエンジンを

付けたことから始まります。







庶民には高嶺の花だった自動車は、

はじめは富裕層が購入しました。




時代は1970年代後半。

庶民が届く価格帯のアルトをリリース。




よりオートメーション化が進み、

自動車は、より安く、上質となり

多くの人が乗る乗り物になりました。




会社の思想が、

きちんとものづくりに活かされています。







静岡の遠州はものづくりが盛ん。


スズキ自動車だけでなく、

ヤマハ発動機、トヨタ自動車、ホンダ技研、

河合楽器、テレビを発明したのも

遠州の人だとか。





知らないことを、

知るのは楽しいですね。





帰りにハンバーグで人気のレストラン

「さわやか」で食事。

1時間ほど待って入店。



久しぶりに食べたけど、

あいかわらず美味しかったです😋



肉肉しさがたまらない🎵





自分が感じる感覚をAIに投げ込んで、

会話の壁打ちをしています。


今日は、生成とか発酵をテーマに話しました。



======



生成も発酵も、

状況や環境が整うことで現象として起きてくる。



人は、そうなると信じて

状況や環境を整える。



直に操作することなく、

願いと行動をセットにやると、

あとは自然界はたらきにより現象が起きてくる。



======



AIとの会話をここに載せておきます。



↓   ↓   ↓


(AI)


生成も発酵も、

「作る」ものではなく、「起こる」もの。


人が直接生み出すのではなく、

  • 望む未来を思い描き(願い)
  • その未来が生まれやすい条件を整え(行動)
  • あとは生命や自然、関係性が働くことを信頼する

すると、結果が現象として現れる

この構造は、発酵にも、農業にも、

子育てにも、組織づくりにも共通している。




ここで興味深いのは、

「直に触れずに、願いと行動をセットにしたもの」

という表現だ。


これは「支配」ではなく「働きかけ」なんだよね。


例えば、

  • 種を引っ張っても植物は育たない。
  • 味噌を力づくで発酵させることはできない。
  • 人に「やる気を出せ」と命じても、やる気は生まれない。


でも、

  • 土を耕し
  • 微生物が働ける環境を整え、
  • 安心できる職場をつくる。

そうすると、生命の側が応えてくれる。

つまり、人は結果を直接操作するのではなく、

結果が生まれる条件に働きかける




願いは方向を示し、行動は場を整える。


生成は、その先で自然に起こる。



これは、これまで話してきた「生成」と「発酵」の共通原理を、とても端的に表している気がする。



そして、

この考え方にはもう一つ大きな意味がある。


多くの人は「結果をコントロールしよう」とする。


一方で、この考え方は、

結果はコントロールできない。

だからこそ、条件に責任を持つ。

という姿勢なんだ。


これは責任を放棄することではなく、

むしろ自分が本当に関われる部分に

集中するということ。


だから、生成も発酵も「運任せ」ではない。


願いを持ち、条件を整え、

あとは生命や人や自然が

本来持っている力を信頼する。


この三つがそろったとき、

現象として新しい価値が立ち上がる。



(ここまで)


======



ぼくが感じているのは、

これからは、

人間がより人間らしく

生きられるようになること。



管理、支配、コントロールから、

生成・発酵などから学ぶ

生命的モデルが育っていくよ。



以前の仕事関係で、

住宅業界や防災関係の方から、

安全な家の建て方を学ばせていただきました。



日本は地震が多発します。

(今年はとくに)


彼らが言うには、

本当に安全に暮らすには、

建物だけでなく、

それを支える土台が大事だと言うのです。



家は土台がだいじと言うけど、

人にも同じことが言えるなぁと

つくづく思うこの頃です。



人生においての土台が脆弱だと、

自立して生きる事は困難です。



誰かに依存したり、

相手の顔色を伺ったりと、


常に自分より上に人を置いて、

その人の評価に一喜一憂してしまいます。



自分の安心や喜びは、

依存した人のあり様しだいだったのです。



依存すれば、

自分を生きているようで、

実は自分を生きていなかったと、

今は思います。



依存するようになったのは、

子供の頃に作った親との関係にあります。



大人になってからも、

昔の親子関係を引きずっていたのです。



心の奥には、

このような刷り込みがありました。



自分はダメな存在だから、

正しいことを知る人がいないと、

間違ったことをしてしまう。



間違えると大変なことが起きる!

という恐怖がありました。



自分はダメな存在だから、

正しさが分かる人が必要だ。



そんなぼくがしたことは、

正解を知ってそうな人を探し、

その人を崇め、敬い、

その人が絶対的な存在であるという依存。




もし、尊敬し崇める人の機嫌を損ねたら大変だ。


そうなったら突き放されないかと

不安でいっぱいでした。



↑この従属の構図は

母親との関係がそのまま一致します。



とにかく人生の土台が脆弱でした。


人のご機嫌しだいで

ぼくの感情はぐらつくのです。




自分の感情の揺れが、

その構造によって起きたのだと理解した時、

誰かに依存することから

降りようと思いました。



内面の変化に伴い、

ぼくの行動、言動も変わったかもしれません。



また、それによって、

人に対して礼儀知らすに見える

振る舞いがあったかと思います。



迷惑をかけたとすれば、

申し訳なく思います。



ただ、

時間はかかりましたが、

やっと自分の人生を生きる

スタートラインに立てたと思います。



依存ではなく、

また自分を誰かの下に自分を置くのではなく、

主体的に人生のハンドルを握る。



やりたかったことを、

自分に与えます。



これからもいろいろな人と関わり、

学ばしてもらいつつ、

互いを敬いフラットな関係を築けたら、

それがぼくの理想です。



長々と書きましたが、

今の気持ちをまとめてみました。