私の家は比較的裕福で、不自由はしないで育ててもらってきたと思います。それなのに、どうして生きなければならないのだろう。明日死ぬかもしれないし、死んだら何も無くなるのに、どうして生きなきゃならないのだろうと、ずっと思っていました。

義務教育を終えてから、そうこうしているうちに、生きる意味なんてものはない。人生は長いようで短い暇潰しなんだと思うようになりました。


それでも生きていかなきゃならないなら、人生そのものに、自分で生きる意味を見つけなければならない、それが人それぞれ、大切な誰かだったり、好きなこと、やりたいこと、行きたいところなどの理由を作って生きているのだと思います。




命を無駄にするな、君が無駄に生きた1日は誰かが必死で生きたかった1日なんだ。とどこかで聞いたことがあるけれど、どうしてもいまいちピンとこない、誰かのことを考えて生きる余裕がない。そういう時、わたしは、暇潰しという言葉に救われます。


辛いことがあっても、悲しいことがあっても、これは暇潰しなんだと思えればちょっとでも楽に生きることができる、いつか終わりが来ると分かっているから、この瞬間を大切にできる。



また、医療の場においてもそれが言える時があります。
安楽死の是非についてしばし取り上げられています。その時、患者の方で、安楽死という選択肢があるから、死にたくなる時までもうちょっと生きてみようと思える。と話されていました。


この話を聞いて、生きることを肯定しつつも、死を選択肢に持っていることは、否定的になるべきではないと、私は感じました。



私の好きなノルウェイの森という本の一節で、

死は生の対極に存在するのではなく、その一部として存在していると言う言葉があります。


死を拒絶するのではなく、受け入れる。
そうすることで、生きることにも前向きになれたりするのかな、と感じます。




重い話でごめんなさい。不快になられた方がいたら申し訳ございません。


価値観を押し付けたいのではなく、こう言う考えの人がいるんだな、くらいに思っていただけたら嬉しいです。


私が紡いだ言葉が誰かの背中を押せますように。