眩しいけれど見つめていたい。



沈んでいく夕陽を追いかけて



ここまで来たけれど



明日はこっちにはない。



ファイト!



明日は明日の風が吹く。



もしかしたら、いいことがあるかも知れない。



ファイト!











「しっかり説明してもらわんとー」

 
 
 
“だから、何回も言うとるやんけー”
 
 
 
 
 
何回言っても、どう言っても、
 
 
 
わかろうとしない、わかりたくない、わかってはいけない人がいる。
 
 
 
毎日、毎日、毎回、毎回、
 
 
 
しぶとく同じことをくり返す野党とメディア。
 
 
 
 
 
自分たちの都合の良いコメンテーターに同調させ
 
 
 
自分たちの目的に合った街角の声、SNSの声を
 
 
 
いかにも世間の声のように利用する。
 
 
 
 
 
すべての人があなた方と同じ考えではないない。
 
 
 
私にとって信用のできない怪しい人間はオマエたちだ。
 
 
 
 
 
 
 
ガクジュツカイギ?
 
 
 
ニンメイキョヒ?
 
 
 
それが学問の自由の侵害だとは思わない。
 
 
 
たいていの学者、記者の主張は、「私はこう思っている」という
 
 
 
それぞれの考え方だと感じている。
 
 
 
両極端な声を除いたところから、いろんな意見を聞くことも大事だと思う。
 
 
 
 
 
反対と批判は必要なことだからこそ乱用してはいけない。
 
 
 
それは望んでいることの妨げになる時もある。
 
 
 
 
年に一度の消防車両の点検をした。










学生時代のような



部活動のように



みんなが集まってワイワイ騒ぎ



しんどくても助け合って



目標に向かって一生懸命に努力する。





それって楽しいことだと私は思う。





自分だけのためになんて



自分の小さな世界に閉じこもっているだけだ。



面倒くさいからなんて



まだキミはなにもしていないじゃないか。



自分の生活を大切にしたいからなんて言うけど



頑張ってる彼らだって、その時間を大切にしている。





やってみもしないで、やりたくないと決めつけるな!



と、消防団に入ることに難色を示すキミたちに彼らを代表して反論する。





一緒に部活動しようでぃ。










穏やかな水面に模様ができる。








水滴が落ちる。



風が吹く。



水中で生物が動く。



と、水面が揺れる。
















いろいろあるからこそ



じっとそこを見ていられる。





いろいろあるからこそ



それも面白いとわかるのだろう。





きっと、なにも変わらないと



つまらない・・・。
私は学生時代、英語をカタカナで憶えた。



たがら英語が喋れない。



カタカナは文字数が多くなると暗号に感じる。



ワケがわからなくなる。







これ、なんて名前?



いらんことを聞く人がいる。



「これは、モンビレアスペガジーニフォーマクリスタータって言うねん」








「これは、トラディスカンチアシロモンタナ」








・・・、



嫁はどこにカバンを置いたとか、学校からのプリントをどこにしまったとか



そんなことはまったく記憶には残らないけど



やたら文字数の多いカタカナの花の名前だけはちゃんと憶えている。



呪文のようなカタカナを連呼する。





私が唯一憶えた長いカタカナは



“ゴルバメジラバッハスタリンコチャンアクラズルメ~”



子どもの頃に見ていたテレビ番組で毎回聞いた変身の時の呪文だ。



たしかあの番組は、チビラくん?






イマハモウオボエラレナイ



カタカナハ、トテモニガテデス。