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Appadiyah* ~ in India ~

南インド出身のドラヴィダ人の夫と共にタミルナドゥ州コインバートルに在住。
“Appadiyah”とは、タミール語で「へぇ、そうなんだぁ」「へぇ、ほんとに~!」という意味の感嘆語。なんとなくその言葉の響きが好きなのでブログのタイトルに。

待ちに待ったマンゴー&ライチの季節到来☆

去年はマンゴーのほうが先に出回っていた気がするけれど、
今年はいいマンゴーがまだあまりなくて、
意表をついて店頭にならんだライチを先に購入して、初ライチを堪能。
ライチから送れること2日後に初マンゴー。

どちらも、これからクオリティの高い種が出回ってくるのだけれど、
待ちきれずに買ってしまったわけです。

ただしマンゴーに関しては、今年は雨の影響で不作らしい…とのうわさもささやかれています。

どちらも日本ではあまり馴染みがないフルーツだけれど、
バングラではこの季節をみんな待ちわびているのです。

シーズン中に飽きるほど食べて、また来年の訪れを待つ。
食べ物は本来“季節のもの”。
一年中手に入ったら、その訪れを待つ楽しみもなくなってしまうわけですねぇ。

桜の季節を待ちわびて、桜前線を追いかけながら花の盛りを楽しみ、次第に散りゆく花びらに思いを巡らせるように、
ここバングラでは、マンゴーとライチの店頭デビューに喜び、時間とともに移り行くバラエティ(品種)を追いかけて、最後は値段の高騰とともにマーケットから姿を消してゆく様に未練を残しながらも、「あ~美味しかった」と季節を堪能するわけです。

Appadiyah* ~ in Dhaka ~-サイフル


我が家の新しいコック…サイフルです。(右側)
5月2日より我が家に滞在しています。
っていうか、コック紹介何度目だろう。。。

左にいるのは、夫の会社のオフィスボーイ「ロニー」で、
彼は我が家のコック&メイド不在時は臨時ブア(お手伝いさん)。
長年いるだけあって南インド料理も少しできるし、家の仕事も丁寧にしてくれるので
本当に困ったときのロニー様なのだ。


サイフルは、32歳。
6歳の娘と、1歳半の双子の娘と息子がいる。
イスラム教徒。ベンガル人。

かつてドバイで日本の大手某ゼネコン会社のコックさんとして働いていた経験があるため、日本食もOK。
以前のナシールもそうだったけれど、日本人の会社や家庭で長く勤めていた人は、
比較的温厚で、仕事も丁寧で、他の料理の覚えも早いなぁと思う。
日本人のもとでトレーニングされたのもあるだろうし、逆にそういうタイプの人が日本人とうまく付き合っていけるから結果的に長く残っているのかもしれない。


あれっ?前回紹介したニヨティは…?

もうお気づきかとは思いますが……退職されました。

実は私がブログに紹介した約2週間後に去っていってしまったのだ。
2~3日体調不良を訴えていたニヨティは、3日目の早朝になって熱が下がらないから家に帰りたいと言い出した。
熱を測ってみたら微熱程度だったので、この近くのドクターに見てもらってはどうかと提案したのだけれど、
彼女の中ではすでに家に帰ることを決意しているのが分かった。
そしてなんと、そのとき既に彼女の親戚にあたる女性が我が家のキッチンに待機していたのだ。

これは何かおかしいなと思いつつも無理矢理引き止めるわけにもいかず、とりあえず了解したのだった。
ニヨティが去った後のサーバントルームには、案の定彼女の私物は一切残っていなかった。

それから数日後、彼女を紹介してくれた友人宅のメイドつてに聞いた話では、
ニヨティはすでによりお給料のいいビューティーパーラーの仕事が決まっていたのだとか。
要は、すべて計画されたシナリオだったのだ。(いつものことだけど)

その後ニヨティから連絡があって、まだ体調がよくないからいつ戻れるか分からないという。
医者にはなんと言われたのか、原因は何か…と聞くと、原因は自分も分からないと。
アージュンが彼女と話した際には、我が家で夜ゴースト(お化け)が出て、おそらくそれが原因で熱が出たんだろう…と言っていたそうだ。
そこまでして嘘をつくよりは、はっきりと辞めたい…と言ってしまえばいいのにと思ってしまうが、
彼女なりに後ろめたさがあって言えなかったのだろうか。


そんなわけで、ニヨティの写真を撮って公開する間もなく、次のサイフルがやってきたのであった。

サイフルは寅さんのような顔立ちのせいか一見ラフな感じの人かと思ったが、
よくよく観察してみると穏やかで丁寧そうだ。
あ~今度こそ、長く我が家にいてくれれば……
と期待するのはもうやめた。
まあ、続けてくれるだけ続けてくれればいいだろう…というのが今の正直な諦めにも近い気持ちだ。
バングラデシュ恒例のホルタル(ゼネスト)が3日目に突入。

いつものように最大野党のBNPによるホルタルなのだけれど、
今回は野党アワミリーグ政府への政治的な不満が原因ではない。

先日、シレット地区のBNPリーダーが行方不明になったのだけれども、
BNPはそれをアワミリーグの仕業だと言い張っているのだ。

何を根拠に言っているのか分からないが、そんなことを理由に3日間もの連続ホルタルを強行したBNP。

普段は、政治の中心地であるダッカ南部に暴動が集中するのだけれど、
今回はなんと、モハカリやグルシャンでも暴動、多くの逮捕者が出ている。

昨日は、私の会社のすぐ前でもバスに火がつけられたらしい。
また、今日も出勤してきた現地スタッフが、会社近くで一般自動車に投石しているのを見かけたと話していた。

多くの日本企業は営業中止で皆自宅軟禁状態になっている中、我が社は通常営業で、出勤は状況をみて個人の判断に任せる…となった。
私は初日は欠勤したが、その後は出勤。
現地スタッフからは、外国人の自動車での移動は危険だからやめた方がいいと口々に言われた…。

このホルタルは、企業にとってみれば営業妨害以外のなにものでもないが、
バングラデシュ人にしてみたら、ちょっとしたボーナス休暇的な感覚があるのも事実。
まあ、気持ちが分からなくもないけれど。

3日目の今日の夜、BNP党首カレダ・ジアのアナウンスによると、明日はホルタル休止で、次は日曜日を予定しているとのこと。
もしかして、行方不明のリーダーが見つかるまで繰り返すつもりなのだろうか。。。。。

こんなことをしているから、国の経済や外国人からの印象に悪影響をもたらすだけなのに…
まあ、それが野党側の狙いでもあるのだけれど。
まるでライバルの成長、成功を妬んで嫌がらせをしているようなものだ。
「この国が良くなっていくのは難しいよ」

そんな匙を投げたような言葉を時々耳にする。
外国人からも、そしてバングラデシュ人からも。

私がまだバングラデシュに移り住む前に、日本で会ったバングラデシュ人たちが、
「自分の国は好きだけど、あの国が変わるのは難しいよ…。だから国には帰りたくないんだ」
と口を揃えて言っていたのを思い出す。

当時は、自分の国をそんな風に言うなんて悲しいじゃない…と思ったりもしたけれど、
でも、そんなのは先進国で生まれ育った人のきれいごとなのかもしれない。
平和で豊かな生活に安心感を求めるのは、誰でも同じ。
それに、国に対するあきらめと同時に、彼らの中に自分の生まれたふるさとや友達、家族に対する強い思いは忘れていないことも少しずつ分かってきたのだ。



「この10~20年で、バングラデシュは変わってしまった」

独立戦争を経験した50代、60代の人たちから漏れてきた言葉だ。
昔はお互いをもっと信頼し合えていたし、メイドやドライバーたちだって2世代、3世代にわたって家族のように付き合っていたものだと。
それが今では、本当に信用できる人を見極るのは難しく、“友達”のように付き合っている間柄でもそれぞれが様々なフィルターを通して相手を探っているようなところがある。


パキスタンからの独立後、アジア最貧国というレッテルを貼られ、世界各国からの援助を得ながら少しずつ成長してきたバングラデシュ。
ここ数年間では、縫製産業を中心に経済成長率は6%前後を推移している。
でもその背景には、一日1ドル以下の路上生活を余儀なくされている人々がダッカ市内でも至る所に見られる。


この国の健全な成長を妨げている大きな原因は政府の汚職、同じく汚職に染まった司法。
その暗黙のブラインドの傘の下に守られて、一般市民の間にもポケットからポケットへの紙幣のやりとりが、日々当たり前のように繰り広げられている。
この国では、コネやお金で解決できることが多すぎるのだ。
そのコネやお金がなければ泣き寝入りするしかない現状と力関係を利用して、チャンスさえあれば少しでも取れるところからお金をとろう…ということに対する罪悪感が極めて薄弱になっているのだと思う。
最悪の場合には、数千、数万タカのために人の命を奪ってしまうことも。つい最近でも、お給料の交渉に応じてくれない雇い主がドライバーに刺し殺されるという事件があった。

これらはつきつめれば「自分さえよければいい」という我欲であって、それが交通マナーや、ビジネスのあり方、人との付き合い方にも現れているのだと思う。



いわゆる社会的モラルというのは、「人に迷惑をかけてはいけない」、「自分の我欲のためにルールをおかしてはいけない」という、いわゆる人間の良心が集団意識として社会の暗黙のルールになったものなのだと思う。
そしてそこには、モラルを無視した人への社会の批判的な目、法律を犯した者への法的な裁きがあるために、国や社会は一定の倫理観を保つ事ができているのだろう。

私は、日本はなんでもすぐに規制しすぎて、危ない事はすぐにルールで縛ろうとしすぎるのでは…と思っていたし、今でもそう思う。
しかし、法律や“社会の目”というものが機能しなくなってしまったら、人間はどこまでも箍がはずれていってしまうのではないか…と考えることがある。

モラルから解放された直後の人々は、自分の中に蓄積された良心のかけらによって自らを律することができるかもしれない。
でも、誰かがやりたい放題で、それをとがめられる事もなく日々豊かになっていくとする。
小銭を払えば多少の違反はすり抜けられて、テーブルの下でお金を渡せば優遇される。
そんな倫理観の崩壊だけなら他人事として見ていられるかもしれないが、もしもそれが明らかな貧富の差となって自らの生活にも押し寄せてきたらどうだろう。


貧富の格差がある中での急激な経済成長。
さらに社会的秩序をつくるはずの政府による汚職と、不正が許されてしまう社会。
そんな中で、より豊な生活を手に入れることへの欲求にかられていってしまうのは、ある意味でとても人間らしい私たちの性なのかもしれないと思う。
だから、それを「国民性」というひと言で理由付けしてしまうことはできないかと思うのだ。
現に、世界をひとつの国家としてみれば、私利私欲による貧富の差と不正な取引が堂々と横たわっているではないか。


そんな中での希望の光とは何なのだろう…。
欲というものが人間の性であるのと同じように、家族愛や人情といったものも人間があわせ持っている性である…という事実だろうか。
ひとり一人の中にある良心…というものだろうか。
歳月を重ねて動き続けている大きな流れを変えていくのは簡単ではない。
だから結局は、この大きな波に飲み込まれないように、世界中で日々生まれている小さな波が絶え間なく続いていくしかないのかもしれないし、、、もしかしたらそれでいいのかもしれない。




※現在のバングラデシュの抱える問題やネガティブな要素にフォーカスすると偏ったイメージをもってしまうかもしれないが、私はバングラデシュの人々は、元来とても人なつっこくて、素直で、器用でまじめな人たちなのだと思う。
彼らの文化には音楽や文学、絵画といったいわゆる芸術に対する親しみが自然と根付いていて、人が集えばタブラーやハーモニウムを持ち出してタゴールやラロンの曲を歌い始めたりする。
知り合いになれば、家に招待して家庭料理でもてなしてくれる。
日本にいたころに出会ったバングラデシュ人からは、真面目にコツコツと仕事をして、とても礼儀正しい印象を受けたのを覚えている。

過去50年を振り返って、日本人だって失ってしまった心があれば、変わらない日本人らしさがあるように、時代や国の政治的経済的な背景が変わっていくときには、表面に見える変化と同時に、目には見えない変わらないものというのも存在しているものなのだろう。

しばらく更新をしなかったら、すっかり書くのが面倒になってしまいました。

そうこうしているうちに、ダッカはすっかり夏です。

冷房のきいた部屋で、最近店頭に出回り出したスイカを食べながら、久しぶりに筆をとってみました。


前回の“さよならナシール”から更に色々とあり、
現在我が家には、新人ニヨティが我が家のコック兼メイドとして住み込みで働いております。

<ニヨティ プロフィール>
年齢は本人曰く25歳。
マイメンシン出身のガロ族。
クリスチャン。
細くてあどけない面持ちからは想像できないが、すでに結婚していて3歳になる娘がいる。
以前はビューティパーラーで数年間働いていたので、ヘアーカット、眉毛脱毛などができるとのこと。

職歴はビューティパーラーのみで、家庭で働くのは初めて。
料理もほぼ素人だが、飲み込みがよくてとりあえず基本はマスターした。
ちなみに、ニヨティの親戚にあたる女性がインド人の友人の家で働くメイドをしていて、その紹介で我が家に。

※ニヨティの写真はそのうち公開します。



さて、我が家にもう一人いたメイドのヘレナはどうしたのかというと…
ニヨティが来て2~3週間後に我が家を去り、転職していきました。
彼女はすでに5~6年近く働いていたので、そろそろ転職どきだったのだと思います。


ついでにナシールについてのその後談も。
どうやらナシールは、海外派遣エージェントにだまされて(あくまで本人談)、海外へは行けなくなってしまたとのこと。
その後、我が家に戻ってきたいという連絡を何度もくれたのですが、残念ながらうちにはすでにニヨティが住みこみで働いているので難しいところです。
どこか紹介できるところがあれば紹介してあげようとは思っていますが。


ナシールの日本食を失うのはとても残念ですが、
ニヨティはとても素直でいい子なので、長く居てくれればいいなぁと願っています。


この2ヶ月のうちに我が家でおきた出来事ダイジェストでした。
コックのナシールが我が家を去った。

先月末のこと、

「マダム、ショモッシャ アセ(困った…)」

とナシールはお決まりの文句で話を始めた。


奥さんからの指示だったのか(おそらくそうだろう)、彼は密かに海外出稼ぎ労働の派遣会社に登録していて、
先日ドバイで仕事の空きがでたから速やかに出国準備をするように、との通達があったのだという。

そんな勝手なことをしておきながらも、実はあまり海外へ行くことに乗り気でないナシールは
再び私たちに給料UPの要求をしてきたのだった。
妻子をダッカに呼んで生活したい。でもそのためにはあと3000タカUPしてほしいというのだ。
前回はナシールのスキルや人柄をかって、無条件に昇給したのだが、
さすがに短期間に何度も同じようなことは、他のスタッフの手前簡単にはできない。

今日明日で返事ができることではないので、数日考えることにした。
そしてその間、ナシールは我が家を出てミルプールにある彼の親戚の家で数日間過ごしていた。

その後、私はいくつか条件を付けて彼の昇給および有休の贈日も受け入れることにした。

1)彼の希望する給料の額面を受け入れる
2)しかし、今後2年間の昇給はなし
3)もしもメイドがいなくなったら、料理に加えて掃除、洗濯もする

彼はこの条件をほぼ納得していたようだったが、最終的には奥さんの許可が必要とのことでその日は帰宅した。
そして翌日、やはり海外へ行くことにしたとの連絡が入った。

ナシールを失うのはとても惜しかったが、これ以上はどうしようもない。
他の日本人家庭と比べてみても、私たちが飲んだナシールの要求は高額だったのだから。

こうして、またしても我が家のコックは去ってしまった。

そして、実は影のトラブルメーカーであるヘレナ(メイド)はクイーンの座に君臨し続けているのだ。
1)アチャール

アチャールとはピックルのようなもので
マンゴー、オリーブなどいくつかの種類があり、
甘いアチャールもあればスパイシーアチャールもある。

私は特別な思い入れがなかったので、
普段アチャールを出されても大抵手をつけずに食事を終わらせていた。

しかし、チッタゴンの工場のオーナーの家へディナーによばれた時に食べた
奥さん自家製のオリーブのアチャールがすっごく美味しかったのだ。
勧められて手を付けないのも悪いと思って食べてみたのだけれど、
すっかりはまってしまった。
今までアチャールを食べなかったから比較はできないので、
このアチャールが特別に美味しいのかどうかは分からないのだけれど。

そしてあまりに私が美味しい美味しいと言って食べていたものだから、
彼は冷蔵庫から小さなボトルにつまったその自家製アチャールを
そのまま一本持たせてくれたのだ。

これが病付きになり、今では毎日少しずつ楽しんでいるのだ。

Appadiyah* ~ in Dhaka ~-アチャール



2)マクドナルド?

お昼に入ったレストランの入り口に、
赤のボーダーにブルーのベストをしたおじさんが立っていた。

Appadiyah* ~ in Dhaka ~-マクドナルド

これってマクドナルドのパクリでしょ。
でもやっぱりブルーのベストは違和感がある。。。

昨年12月のある日の夜、蛍光灯の青白いライトの下でナシール(コック)はうつむいて座っていた。

ナシールご飯食べたの?

いや、まだです。

なんとなく元気のないナシール。

たわいもない会話をしていると、ため息まじりにナシールがポツリポツリと話しはじめた。

実は少し前に、ナシールが奥さんからプレッシャーをかけられていることを相談された夫は、
お給料を一気に30%もアップしたばかりだった。
だから現在の彼のお給料は、家庭のコックさんにしてはかなりいい額になっている。

しかし、それでもナシールの奥さんは彼にグチグチとプレッシャーをかけてくるらしい。

「私と子供たちもダッカに住めるようにしてくれ。
 それができないなら、また海外へ出稼ぎに行ってきてちょうだい!」

バングラデシュからの中近東諸国への出稼ぎ労働者は多く、
それはもちろん、国内にいるよりも稼ぎがいいからで、
ナシールもかつてはカタールでペインティングの仕事をしてたこともあったという。

奥さんは現在、子供の学校やコーチング(彼らがコーチングとよんでいるのはおそらく補習塾のようなもの)のための送り迎えで、夜遅いバスに乗って帰ってこなければならず、セキュリティ面や効率を考えたら、多少高くてもダッカに住んで近くのパブリックスクールに入れた方がいいというのが彼女の意見だ。
それはごもっともかもしれないが、これまでの彼女の様子(実際にはナシールの様子)からすると、
ダッカに来たら来たで、またナシールのプレッシャーは増えていくのではないか…という気もする。



そんなことを悩んでいた矢先…
今度は、彼の家族が住む田舎で新たな問題が発生した。

土地を巡る争いだ。

どうやら隣の住人が、ナシール曰く“ナシールの土地”を自分の土地だと言い出したのだという。

ナシールの家には、奥さんと子供、ナシールと奥さん両方の母親しかおらず、つまり男がいないのだ。
バングラデシュのような国、とくに田舎の方では、男がいなければどうしても対等に争えず物事が相手の思うままに進んでしまう。

そんなわけで、昨年12月のクリスマスを3日後に控えた日、ナシールは特別休暇をとって田舎へと戻っていったのだった。

ナシールがいないまま年は明け、いったい彼はいつ戻ってくるのか、それとももう戻ってくるつもりはないのか…
と少し心配していたある日の夜、ナシールは戻ってきた。
長旅ですっかり疲れた様子だったけれど、とりあえず無事に戻ってきてくれたことに私も胸を撫で下ろしたのだった。
ちゃんと鞄に荷物をつめて持ってきていたので、とりあえず辞めるつもりはないようだ。

その日は疲れているだろうからもう休んでいいよと言ったのだけれど、彼はしっかりと夕食の後片付けをすませていた。


その日の深夜2時をまわった頃…
夫の携帯電話がなった。

それは、キッチンで寝ているはずのナシールからの電話だった。

いつの間にか彼は家の外に出ていて、それを知らずに私たちが家の鍵をかけてしまっていたらしく、扉を開けてコールだったのだ。
一般的にはこのような行為(夜中に勝手に外に出ること)は様々なリスクがあるため許されていない。


それから30分ほどして、私たちはまたしても携帯の着信音で目が覚めた。
ナシールだった。

彼に呼び出された夫は部屋の外へ出ていった。
しばらくしても戻ってこないので私も部屋を出ていくと、リビングで夫とナシールが話をしている。
こんな時間にいったい何を話しているのだろうと、眠たい目をこすりながら近づくと、ナシールがうつむきながら鼻をすすっている。

ナシール曰く、、、、

今日ダッカに戻ってくる際、田舎から彼の義母も一緒に連れてきた。
彼女はチッタゴンにある親戚の家に行く為、ナシールがバス停まで連れて行って長距離バスに乗せてきたのだという。
そしてチッタゴンのバス停では親戚が迎えに来ることになっていたのだが、バス到着時間になっても彼女はいっこうに現れない。

つまり、“消えてしまった”というのだ。

そんなことって…本当???

という疑惑もあったのだけれど、
とりあえず義母を探しにチッタゴンへ行きたいというナシールを無理矢理とどめさせることもできないので、
バス代などのお金を渡して私たちはベットに戻った。

翌日朝早く、朝一番のバスに間に合うように静かにひっそりとナシールは出て行った。


この国ではコック、メイド、ドライバー、スタッフなどの話をどこまで信じていいのか、その判断はいつもとても難しい。
些細なことから大げさな話まで、多くの場合がフィクション、または実話をもとにしたドキュメンタリータッチのフィクションだったりするからだ。
(人から聞いたメイド、サーバントの作り話特集はいつかまた別の機会に)

それでもとりあえず、私たちはナシールの話が本当だと信じてみた。
そしてもしもこれが本当に真実だったとしたら、田舎から出てきた携帯電話も持たないナシールの義母が
自力で親戚を見つけ出す、または見つけられる可能性は果たしてどれだけあるのだろうか、という疑問と不安も拭えなかった。


3日、4日経ってもナシールからは「まだ見つからない」という連絡しか入らなかった。
かれこれ2週間以上もナシールがいないことになる。

それから更に2、3日過ぎたある日、ナシールは突然戻ってきた。
どうやら義母が見つかったのだと言う。

どうやって? と聞くと、

リキシャワラが彼女を連れてきてくれたようなことを言っていたのだけれど、あまり多くを語らなかった。

まあ、、、とりあえず、、、ナシールが戻ってきてくれたのはよかった。

でも彼にはまだ土地の問題と妻からのプレッシャーが残っているため、まだまだもう一悶着ありそうだけれど。
金土休みを利用して、チッタゴンの縫製、生地、染色工場巡りをしてきた。

チッタゴンはベンガル湾に面したバングラデシュ第二の都市。
港町ということで古くから商業が盛んな街で、チッタゴン人は商売に長けているという話も耳にする。

人権負が安く、ニット製品を中心に世界中の衣料品がここバングラデシュで生産されている。

川を渡った向こう岸にのある生地・染色工場は、
すぐ横の橋がもうずっと長いこと倒壊したまま放置されているため、
工場専用のスピードボートで対岸まで出迎えに来てくれる。
時にはチッタゴン空港近くまで迎えにいくこともあるという。
気候のいいこの季節は、心地よい風を受けながらのショートクルーズ気分が楽しめる。
(川は濁っているけれど)


今回特に印象に残ったのは縫製工場だった。

工場内は大抵、10代半ばから年配までの女性がほとんど。
各製品ごとにユニットが分かれていて、その中でパーツごとにミシンで縫う人、
糸や生地処理をする人がセットになっており、
みんな手慣れた手つきで素早くリズムよく生地を送り出している。
皆それぞれに手先は器用で仕事は速いのだけれど、細かいディテールへの心配りはかなり個人差があるように見えた。

私が訪れた縫製工場のひとつは、音楽が流れていて割と和やかな雰囲気で、
決して大規模な工場ではないにも関わらず、メディカルルームには簡易ドクターが常駐していた。

翌日少しレベルの低い別の縫製工場を訪れた際、
様々な種類のミシン音が鳴り響く工場内で彼らの作業を眺めながら、
低賃金による大量生産によって生み出されるものと、
職人によってひとつひとつ丁寧に織りなされるものの違いが
何か心を突くように伝わってくるのを感じた。

短時間にできるだけ多くの物を作ることを要求される工員たちの商品を扱う手と、
時間をかけてディテールにこだわって作り上げていく手。
速く効率的であることと丁寧であることは共存し得るのだけれど、それは速さの質が違う。
そしえそれは、縫い目のひとつひとつ、糸の切り端にも作った人の手と心の余韻として残っているのだ。

もちろん、低賃金で使われている工員たちに全く非はない。
繊維の細かいカスが飛び交う工場で、頭に積もったチリを払うこともなく黙々と作業をする工員たちは、
皆生活のために一生懸命働いているのだ。

ただ、私はこれまで比較的丁寧なモノ創りをする人たちばかりを目にしてきたこともあって、
物を丁寧に扱うということ、心を入れて何かを作るということに対して、
ひたすら機械的に煩雑に取り扱われながら出来上がっていく製品を見ていて、
何かじわじわと心にチクチクとした痛みのようなものを感じていたのだ。

今の時代、特に日本の品質は決して、安かろう悪かろうではなくなってきている。
それでもやっぱり、丁寧につくられたものというのは、持っていてとても嬉しくて重みのあるものなんだと
改めてしみじみと感じていたのだった。

そしてそれは、日々の生活の中でのちょっとした作業にも共通することなのだと思う。