葉山の海水浴場 18歳
ラーメン屋に住み込んで3年目ようやく 仕事にも慣れて来て、
青春を謳歌していた頃。
写真を見る限り健康そのものに見えるのだが・・・・。
18歳ぐらいで煙草を くわえているのがいけなかったのか。
同年代仲間5人とエレキバンドを作り仕事が終わって、
夜10時から1 時間程 スナックで演奏させて貰っていた
もちろんタダです。
実はメンバーには高校生も2人いたので、この時間での活動は大変だった。
ローリングストーンズの「テル ミー」等 大きな音で誤魔化せる曲ばかりで、
ビートルズは難しかったので演らなかった。(みんなビートルズサウンズは知っているから誤魔化せ無い)
僕はサイドギターとボーカルを務めていた。
そんな 楽しい日々を送っていた19歳の12月、
集団検診で肺結核にかかっている事がわかり、即 強制入院となった。
下 昭和 43年 19歳
今は無き 船橋ヘルスセンターで、
入院したのは「国立中野結核療養所」結核専門の病院なのだが、後に
入院患者が手紙を出す時、結核で入院しているのが解ってしまうと苦情が出て、
結核を削除 「国立中野療養所」となった。
病院内のポストに投函すると 一旦、燻霧消毒して郵便局に運ぶのだそうだ。
それほど 世間では まだまだ結核に対して「不治の病で 感染するもの」と言う認識が強かった。
僕も最初は絶望に近いほど落ち込んだものでした。
だから 脱走騒ぎまで起こしたのですが、1か月後には先生の説明と励ましですっかり
心も晴れ安心出来ました。
それは、当時には「ストロマイシン」等 良い薬が出来て以外に 早く 完治出来る事が解ったから。
若い患者は1年~2年でどんどん退院していました。
ただ、年配者で 何年も闘病している患者は治りも遅く、悲観して10階の新館病棟から
飛び降りてしまう人も3か月に一人位はいたようです。
その新館には 渥美清さんも 入院していた事があったそうですが、もう一人映画の有名男優さんも
個室に入院しており、ドアの前にはいつも 花束がこっそり 置かれていました。
秘密裡に入院していたはずなのですが・・・・・。
さて、病院は中野区江古田3丁目の小高い丘の上に有りました。
10階建ての新館を目指して急な坂を50メートル近く登らなければならない。
その坂は 誰が名づけたか「血痰坂(けったんざか)」。
長い坂を登り切れず 途中で血を吐いてしまうと言う 自虐ネタでした。
その坂の途中から左下を覗くと 高い石塀に囲まれた大きなお屋敷が見えました。
さのお屋敷は 誰あろう今は亡き 三波春夫さんの大豪邸でした。
近くに 神社があり、夏祭りの際に寄付をした人の名前が 張り出して有りました。
五千円、 三千、 一千円を寄付した人がいる中、多数の一般人は 三百円を寄付したらしい。
昨今の10分の 1の額ですがあの大豪邸の主、 三波春夫さんはいくら寄付していたと思います?
なんと一般人と同じ三百円でした。
「お客さまは 神様です」のセリフ通り( 私は皆さま方より上にいる訳では御座いません)とのポーズだったのかな?
そんな 高尚な考えなど十九歳の若造に解るはずも無く「なんて ケチな奴だろう」と 思ってしまいました。
さて、強制入院と言う法律で入院すると全て 全部 タダ。
まあ、日用品の歯磨きとかチリ紙とかを買うお金は必要だが、失業していたら生活保護費が支給される。
僕の場合は5万円の給料を貰っていたのですが、入院に当たり一年間に 限り1万円の給料を払ってくれる約束だった。
担当の医師も 一年程で退院出来ると 言っていたので、腹を決めて一年間 ゆっくり静養してみようと決心した。
そうと決めたら 此処は 天国みたいな所でした。
僕が収容されたのは 二階建ての旧館で建物は古いけれど10人部屋が3室程で
セントラルヒーティングで暖かいし娯楽室には 灰皿も有り、 結核病棟なのに喫煙も大目に見てくれる。
ウイスキーの角瓶を持ち込み 寝酒にこっそり一杯も出来た。
一階は女子専用病棟なのだが親しくなれば訪問も自由、浮いた話もちらほらと 聞きました。
実は二十歳まえ位の若い看護婦さんにちょっと 気が有ったのだが その看護婦さんから
「同僚 の看護婦でギターを貴方に教えて貰いたいと言う娘がいるの」と紹介された時は戸惑った。
紹介されたその娘 確かにギターは覚えたかったのだろうが、その指先を見てこりゃあダメだと思いました。
だって、赤ちゃん見たいなふっくら、短い指でとても コードには届かない指をしていたのでした。
で、その娘とはそれっきり、気があった看護婦さんとは何と無くもうひと押しと言う感じだったので
ある日 15時の検温の際にベッドの横に立った彼女にアタック!
「君の胸のそのネームプレート、「ザ、 ネームプレート」と呼ぶか「ジ 、 ネームプレート」と呼ぶかどっちだか解る?」
彼女「 えー 解んないっ」
「ジ、 ネームプレートと呼ぶんだよ。その心は 母音(ボイン)の前に有る」と などかけを披露すると
彼女 真っ赤になり逃げて行った。
その後夜 10時の見回り時に 「ちょっと 眠れないんだ」とその看護婦さんに言うと直ぐ睡眠薬を一錠 持って来てくれたり
(これは 結構大変な事で1錠でも 出せば看護婦の責任が発生する。
中にはこっそり10数錠も ため込み自殺する人もいるのだから)
これは行けそうと思った のも束の間、卿里に住むガールフレンドからバレンタインデーの贈り物が届き
その小包を彼女が看護婦として僕に手渡した。
その時の彼女の「ふんっ」という顔を見て ああ これは終わったなと悟ったのでした。
旧館 3室で約三十人の入院者は 大工さん、寿司屋の板前、文明堂の職人さんからは時々カステラの差し入れが。
中野刑務所の偉い人(仮にですが、所長さんとか書くと身元が解ってしまうので書きませんが、まあ御生存でも
現在は100歳は超えている御人なのですが・・・・)
その長身の刑務所の偉い人が同室に居りまして、いつも双眼鏡で窓の外を覗いていた。
下 長身なので、ベッドから足が出ている。
双眼鏡の先には見下ろす位置に5階建ての団地があった。
「覗きの罪にならないのですか?」と聞いたら、
「外の景色を観ていただけで、団地の室内がたまたま見えても 問題は無いんだよ」と教えて貰った。
その中野刑務所の偉い人、死刑執行時のウラ話を教えてくれた。
「死刑を執行する時、若い刑務官から3人が選ばれる。3っつあるボタンを同時に押す事で、
誰が死刑囚の 命を奪ったかは、わからない。俺では無いと思い込む事で仕事を続けられる」
と、こっそり教えられましたが、中野刑務所には死刑執行室は無かったはずだし、
嘘かホントか 今では解らない。
上 その中野刑務所、昭和58年に閉鎖 となりましたが、有名な話に
以前から学生運動をしていた藤本敏夫氏が四十七年四月二十一日、3年 8か月の実刑で
この中野刑務所に収監された。
その 二か月後に加藤登紀子さんと 結婚している。
いわゆる 出来ちゃった結婚なのだが、加藤登紀子さんは 同年12月7日に 長女 を出産している。
当時の2年前には あの 偉い人も退院していたし、職場復帰していたなら何かしら関わったのでは?
よく顔を合わせた患者仲間に あのタレント「カバちゃん」そっくりな二十歳位の男がいました。
いや、男と呼ぶのは可哀想な程、なよなよしていて、いつもピンクのガウンを羽織っていました。
ちょっとエレキバンドに足を突っ込み、いつも ギターで作詞作曲をしていた僕を見つけて彼が
「先生( ?) 、あたしもゲイノウカイに出たいの、 その時は歌の方 よろしくお願いします」
とウインクされた時は そちらには純な僕は 慌てふためいた のだった。
あれから50年、お目にはかからないので 今はどうしてるかな。
ラーメン人生 20歳~ に続く






