猫は 暑いと 腹を上にして大の字に、 寒いと 前足を折って 丸くなる
今の季節が 一番心地よさそうです。
11月2日 暑くも無く 寒くも無い スポーツの秋
久しぶりに野球の 日本シリーズが面白い。
3 連勝したソフトバンクに対しD e N Aがホームで2連勝。
4日からの 6 ~7戦目 が大いに盛り上がっている。
下,3日の テレビ画面から
日本シリーズで3連敗 してから4連勝 して、大逆転の優勝を果たしたのは最近ではジャイアンツで
1989年( 平成 元年)10月29日 日曜日、 対近鉄 7戦目でした。
この日は定休日だったのでドライブ中、栃木から山越えで群馬の桐生ダム湖に向かう途中
この試合を最後に引退した 中畑清が ホームランを打つなど 盛り上がっているのを
カーラジオの中継で聞いていました。
ダム湖に着くと 湖畔の 食堂から ラジオの野球中継がスピーカーで駐車場に流されています。
つられて 食堂に入ると テレビの前に沢山の人盛りが・・・。
ジャイアンツの優勝が決まると みんなで万歳を したのが忘れられない思い出です。
続く
4日 6戦目は 9回裏 土壇場で ソフトバンクの 内川 に同点本塁打を打たれ
延長戦に。
11回 裏 劇的サヨナラ でソフトバンクが優勝しました。
ドライブ中の 野球中継で 忘れられない試合がもう一つ有ります。
それは 1992年(平成 4年) 8月16日 第74回 高校野球。
甲子園球場で星稜の 松井秀喜が 五連続敬遠された試合です。
この日はやはり 日曜日だったのでドライブに出かけラジオで聞いていました。
ほぼ勝敗が見えていたのに 松井に対し五打席目も敬遠策。
これには星稜の応援席から 抗議のメガホン等がスタンドに 沢山投げ入れられました。
結局 この試合,松井は 一度もバットを振ることなく星稜は敗退,甲子園を去りました。
試合後
「いくら リード していても,松井のホームラン一本で流れが変わるかも知れなかったから」
との相手 監督の談話に日本中から賛否両論が沸き起こりました。
この件で高校の野球部 監督100人にアンケートを取ったところ、ほぼ半々に賛否が分かれました。
絶対勝利にこだわる 最近の高校野球の違和感を指摘する声。
しかし一方で 批判も覚悟の上で五打席目も敬遠させた明徳義塾の 監督を称賛する声も多かったようです。
その星稜の試合で球史に残る対 簑島高校の 試合も忘れられません。
実際 (奇跡の ゲーム)と語りつながれ 書籍も沢山出ています。
1979年(昭和 54年)の やはり8月16日 の甲子園球場、この日は木曜日でしたがお盆休みで休業日。
小生の出身県和歌山県の簑島高を応援し乍ら、昼からビール片手に独り(家族はみんな妻の実家にお墓参り)で盛り上がっていました。
簑島高 当時は尾藤監督で甲子園常連高この年の春の大会も優勝していました。
延長18回ウラ、3時間50分の のちサヨナラで決着がついたのは実に19時56分でした。
この18回ウラで決着がつかない場合 明朝の八時半再試合とアナウンスされている中、
まさに最後の最後まで野球の神様が簑島が勝つように導いてくれたような試合でした。
詳しくは続く。
星稜は4回 先制の1点を上げるが、そのウラ簑島は直ぐに同点に。なおも満塁とするが、1点止まり。
その後1-1で9回も終え延長戦に
12回表星稜は1点勝ち越し、なおも1死 1、2 塁でスクイズを仕掛けるが失敗し、1点止まり。
(簑島 1-2星稜)
12回ウラ.簡単に2死。続く 最後のバッターとなるかも知れない 嶋田は尾藤監督の前に立つと
「ホームラン狙っていいですか? ホームラン狙ってきます」とバッターボックスに入った。
嶋田はカウント1-0から見事にラッキーゾーンへの同点ホームランを放ち、なおも延長はつづく。
(簑島 2-2星稜)
14回ウラ。簑島 、ランナーを3塁 に置いて絶好のサヨナラのチャンス。
しかし 星稜3塁手の隠し玉で3塁ランナー アウトとなり無得点。延長は続く。
この頃から小生は誰もいない家で独り イライラ そわそわ。
じっとして居れず部屋の中をウロウロ ぐるぐる。
中瓶のビールの空き瓶も半ダースが転がっておりました。
16回表、星稜 またも1点勝ち越し。
(簑島2-3星稜)
16回ウラ。またしても簡単に2死。さすがにもう、あかんとあきらめかけて次のバッターは森川。
打球は1塁ファールフライ。高く上がったボールはゆっくり 1塁手加藤 のミットに・・・・・。
誰しも試合終了と思ったその時、信じられない事が起こります。
なんとこの年初めてファールグラウンドに張られていた人工芝の端に足を引っかけ1塁手が転倒し
ファールフライを取ることが出来なかった。
これにより 命拾いした森川は2-1から 自身、初めてのホームランを左中間スタンドに放り込み
またしても同点 3 -3 とした。
実況中継のN H Kアナウンサーは「奇跡としか言いようが有りません」と絶叫した。
18回表、星稜は満塁とするも無得点 これで星稜の勝ちは無くなり負けか引き分けに。
場内放送は「この回 決着がつかない場合は 明朝の再試合となります」とアナウンスしていた。
18回ウラ。簑島先頭バッターが4球で出塁し、1死後次のバッターも4球でランナー1,2塁。
続くバッター上野が適時打で2 塁走者がヘッド スライディングで生還。
簑島がサヨナラ勝ちで3時間50分の熱戦を制した。
(簑島 4 X ー3星稜)
小生の 興奮はマックスとなり、誰かと感動を共有したいと思うが、夜の八時では家族もまだ帰って来ない。
それで居てもたっても居られず 郷里の和歌山県の実家に電話してみたら、なんと出たのは
10数年間も行方不明だった 次兄だった。
聞くと、「交通事故やっちゃって、時効成立まで 逃げ回っていたんだよ」だと。
それにも 驚いたが 肝心の 高校野球も実家には当時テレビもなかったので、誰も観ていなかった。
ちなみに この大会 簑島が優勝し春夏連覇の偉業を成し遂げましたが、その後日談。
翌年の簑島高野球部には日本中から入部希望の新入生が100人も入学し尾藤監督を慌てさせたらしい。
初のホームランで 時の人となった 森川は 以後周りの期待から ホームラン狙いのバッテイングとなり
フォームを崩してしまい 打順も8番まで下がってしまった。
この試合は高校野球 最高の試合とされており(他の 試合で 延長、翌日再試合のゲーム等もありますが
それでも この試合を 超えてはいないという評価が定着している)
作家の阿久悠は直後に「最高 試合」という詩を書いている。
他の作家による「八月のカクテル光線」「 黄金の スコアブック」「神様 が作った試合」「奇跡の甲子園」
等等,たくさんの書籍が出ています。
両高は1994年から「再試合」と呼ぶ 交流戦を始め10年ごとに「再試合」を行う。
2010年には甲子園球場での「再試合」が行われ31年ぶりの試合を尾藤監督は
車いすの上で観戦し、涙を浮かべた。試合は星稜が17対13で勝った。
1979年の対簑島戦ではベンチ入りしていた高桑はのちに星稜の後輩 松井秀喜を鍛え上げる。
その 松井秀喜が国民栄誉賞を受賞した年 2013年の第95回大会に簑島、星稜共に甲子園出場を決める。
簑島は尾藤監督の長男が監督を務め、星稜はあの 一塁手 加藤の長男が10番をつけてベンチ入りした。
「34年ぶりの再戦」が期待されたが、両高とも初戦敗退に終わり再戦は叶わなかった。
ちなみに星稜の加藤は代打でヒットを放ちその後の守備で父親の守備位置であった
一塁の守りについた。
1979,8、16日(昭和 54年)が簑島戦。
昭和48年、 江川卓 雨中の四球押し出しサヨナラ負けが8月16日
平成 4年の 松井秀喜五打席連続敬遠が 8月16日
平成10年,豊田大谷対宇部商業が延長15回も 8月16日と
甲子園の球史に残る劇的な試合は全て8月16日に起きている。
「8月16日現象」と呼ばれているそうだ。
了


