武士の自裁手段である「切腹」ですが、その起源は平安時代まで遡ります。
源為朝は、常人の5倍の強度の弓を軽々と使いこなすと言われた猛者で
子供の頃からやんちゃで父の源為義も持て余し、13歳で九州に下向させられました。
16歳の頃には大宰府を制圧し、更に九州を制圧し「鎮西八郎」と自称しました。
後白河天皇方と崇徳上皇方が争った保元の乱(1156年7月)で京都に戻り、
父為義とともに上皇方で参戦しましたが破れて伊豆大島に流されます。
その際、二度と弓が引けなくなるようにと、腕の腱を切断されたそうです。
しかし、恐るべきことにそれを乗り越えて、再び強弓が引けるまでに復活します。
そして次々と伊豆の島々を制圧し、「為朝王国」なるものを作ってしまいました。
それに危機感を覚えた朝廷は、伊豆諸島へ征伐軍を派遣し為朝征伐に乗り出します。
自身に対する討伐軍が向けられたことを知った為朝は、勝ち目のないことを悟り
最後は自裁することを選んだそうです。
征伐軍との戦いで数には勝てず館へ逃げ帰り、柱を背にして腹を切りましたが
死にきれず悶えているところへ、討手の加藤次郎景康が背後から忍び寄り為朝の首を
落としました。これが武士の切腹の始まりとされています。
腹を切ったくらいじゃ即死する訳じゃなし、その苦痛は想像を絶すると思います。
首を落とすことでその苦痛から解放されますが、ある意味武士の情けでしょうか。
以降、切腹は武士の面目を保つ自裁手段として、横一文字や横縦十文字などの方法も
作法として整えられてゆきます。そして、為朝の首を落とした故事から「介錯」も加え
江戸時代には切腹の作法が完成していたようです。
その作法の中には、「扇子腹」と言うのがあって、身分の高い武士が切腹の作法の
乱れを恐れ考案されたもので、切腹の短刀を腹に立てる真似をすると介錯人がその首を
落とすと言うものです。赤穂浪士で有名な浅野内匠頭の切腹は「扇子腹」でした。
切腹の伝統は明治維新後は軍人に受け継がれ太平洋戦争の敗戦まで続きました。
