小田原の北条が降り天下は秀吉のもとですっかり平定されました。

何の伝統も持たない秀吉は、箔を付けようと北条時頼にあやかって諸国行脚に出ると

言い出したのです。側近が何と言って宥めればいいかと思案に暮れているとき、

秀吉のお伽衆の一人、曽呂利新左衛門が秀吉に語り始めました。

 

「近頃、清滝のあたりで諸国より集まった人々が賭博場に集まり賑わっています。

 一人の山伏が張るたびに勝ち、負け知らずの独り勝ち、その他の衆は素寒貧に。

 山伏が言うには、

 『自分は妙術を心得ているのでばくちに大勝するのは当たり前、それどころか

 術により愛宕山のように体を大きくすることも出来れば、煎り豆のように小さくも

 できるのだ』と言うのです。

 ばくちに負けた一人が『それなら煎り豆になって見せてくれ』と言うと山伏は

 たちどころに一粒の煎り豆になりました、その途端男がそれを摘まんでカリカリと

 食べてしまったそうです。」

 

 これを聞いた秀吉は、話の真意を悟り

「うい奴よ、我は天下を持つと言えどもその位にあればこその威光であるのに、

 ただの秀吉になればどんなことが起きるやもしれず、諸国行脚は取り止めじゃ」

としみじみと言ったそうです。

 

 バーナード・ショーは、アイルランド出身の文学者・劇作家・評論家 (1856–1950)、

本名は、ジョージ・バーナード・ショーなのですが、本人は「ジョージ」を毛嫌いし

執筆は、バーナード・ショーで通しました。

 バーナード・ショーは皮肉屋としても知られていました、こんな逸話があります。

 

 米国の著名なバレリーナのイサドラ・ダンカンがバーナード・ショーに

「あなたの頭脳と私の肉体を持った子供が生まれたらどんなにすばらしい事でしょう」

と言い結婚を申し込みました。

 

 ショーは答えて曰く

「私の肉体とあなたの頭脳を持った子供が生まれたらどんなに不幸かお考え下さい」

と答えて拒絶してしまいました。

ショーは生涯独身で、1950年に94歳でロンドン郊外で永眠しました。

 

 この話は遺伝学・人類学の入門書や雑文などで時おり引用されています。

相手はイサドラではなく、舞台を中心に活動していたフランスの大女優で、

サラ・ベルナールだとする説もあります。

 越前北庄藩(福井藩)主松平忠直は、徳川家康の次男結城秀康の長子です。

家中で大騒動を2回も起こしたり、関ヶ原で用兵を失敗したり、酒色におぼれたりと

評判が芳しくない藩主でしたが、三宅庄之助と言う家臣がいました。

 

 庄之助が15歳の時に父の庄左衛門が他界しその家督を継ぐことになりましたが、

藩では庄之助がまだ若年と言う理由で父の禄高250石の半分の相続を認めました。

これを腹に据えかねた庄之助は、藩重役へその理由を正そうとするのですが重役は

「何事も君の思し召しによる」の一点張りで全く要領を得ませんでした。

 

 そうこうするうちに、庄之助が主君松平忠直に初お目見えする日がやってきました。

庄之助は腹をくくり定めの紋服はそのままに、肩衣と袴を半分にちぎった片方だけの

出で立ちで登城しました。

 重役や近習がこれに気づき着替えさせようとした時はすでに遅く、主君の御前に

進み出てしまいました。忠直は異様ないで立ちに驚き「乱心者か」と鋭く咎めますが

庄之助は落ち着き払って言上しました。

 

「恐れながら申し上げます。庄之助こと父庄左衛門より半分しかお役に立ちませぬ者故、

 この度禄高半分のご沙汰を頂きましてございます。

 しかるに、この肩衣も袴も共に亡き父が私に残したものなれば、これを全部着用いたし

 ましては、上は殿様を偽り奉るのみならず、泉下の庄左衛門に対しても申し訳なき

 私儀と心得まする。今後、父同様にお役に立つまではなにとぞこのままにいたし

 おかれますよう、願い奉ります。」

 

 絶対君主に対し切腹覚悟の言上に、さすがの忠直もその非を認め庄之助の禄高を

旧に復したといいます。