ミサイルの時代になった今、あまり意味のない命中率ですが昔を振り返ってみましょう。

 

 日本が外国軍と戦争をして記録に残す大勝利を明治38年5月27日に記録しています。

ロシアバルチック艦隊と対峙した日本海海戦です。大勝利の要因は色々あるようですが

艦砲射撃の命中率もその一つです。日本海海戦を描いた絵画には軍艦の周りに水柱が

立っています。これは、相手の砲弾が命中せず海へ落ちたことを表しています。

水柱の数からして命中率がかなり低いことを想像させます。

 射程距離6,000メートルで日本艦隊の命中率は3%、対するロシアは2%でした。

この1%の差が勝利をもたらしたのです。

 

 命中率があまりにも低いのには驚きます。その後、照準器の進歩で次第に高まり、

第一次世界大戦のユトランド沖海戦の時には射程距離8,000~10,000メートルで

ドイツが5%、英国が3%の命中率でした、良くなってもこんなもんです。

 

 日本海軍は太平洋戦争の直前、射程30,000メートルで16%を誇っていました。

飛躍的に良くなってもこの程度のなんです。

大和、武蔵に至っては46㎝砲を備え射程40,000メートルで16%を上回っていました。

米国の戦艦の射程は30,000メートルでしたので、艦隊決戦があれば日本海軍は

圧倒的優位に立てたでしょう。日本得意の大艦巨砲主義全盛の頃です。

 

 ところが米国は航空戦力の時代になったと空母主力に戦術を転換していました。

奇しくも真珠湾攻撃で米国の戦術が正しいことが証明されましたが、大艦巨砲主義を

踏襲した日本は艦隊決戦が行われることなく終戦を迎えることになりました。

 女癖の悪い亭主の浮気に悩む若い人妻が思い余って物知りな老婆に相談しました。

老婆はしばらく考えて曰く

「とっておきの方法があるよ、ご亭主のあそこを結んでコブにしてごらん

 もし、今夜できなかったら明晩、明晩できなかったら、あさっての晩とね

 諦めずにやるんだよ、くれぐれも諦めちゃいけないよ、分かったね」

若い人妻はそんなことでと半信半疑で老婆にお礼を言って帰りました。

 

 その晩さっそく旦那のあそこを引っ張り出して、結ぼうとしますが、結べません。

亭主は「痛いじゃないか、何するんだ」とはじめは怒ったものの、女房が一心不乱に

結ぼうとするのを見てゲラゲラと笑っているうちに臨戦態勢になってしまい、

思わず女房にかじりついてしまいました。

 こうなると結びコブどころじゃなくなるので、女房は一回終わるのを待ちました。

その後、老婆に言われたように結びコブを作ろうとしますが、再び臨戦態勢で中断。

そんなことを繰り返してその夜は明けました。

 次の晩もコブを作ろうとしますが、一向にコブは作れません、次の晩も、次の晩も、

いつまでも結びコブはできませんでしたが、亭主の浮気はピタリと止んだそうです。

 切腹は武士の作法ですが、切腹で果てた女性がいます。

室町時代は八代将軍足利義政の乳母、今参(いままいり)の局です。

 

 義政は、兄の死により思いがけなく八代将軍を継ぎますが、後見となるべき生母の

重子よりも育ててくれた今参の局を慕い、常に身近においてその意見を聞くのでした。

(側室だったと言う説もあります)

面白くないのは重子、重子の今参の局に対する憎しみは日ごとに増してゆきます。

 

 そして、義政の妻は悪名高き富子です。

富子は子に恵まれませんでしたが、3年目で授かった第一子が産後すぐ死んでしまいます。

義政の側室の子は元気よく育ち富子は怒り心頭、義政の側室を全員追放してしまいます。

そして重子は富子に、子が死んだのは呪詛によるもので今参の局の仕業と吹き込みます。

富子は今参の局との対決を決意し、巫女を抱き込んで偽の証拠を準備し偽証させます。

 

 義政は惑わされ易い性格で、真実を確認することも無く、今参の局に琵琶湖沖ノ島への

流刑を申し渡します。富子は死罪を主張、使者に死罪を伝えさせてしまいました。

 

 今参の局は唐崎まで来たときに追手の気配を感じ近くの寺に入ります。

追手に斬られる前に自裁することを決意、その方法はなんと切腹だったのです。

作法に則り腹を切ったときに追手がやってきました。

「おめおめ汝らに殺されて我一門を辱めようや、わが死にざまをとくと見よ」

と言い放ち息絶えたと言います。

 

 その後、

重子は足腰が立たなくなる重病に罹り、富子は毎夜今参の局の亡霊に悩まされました。

富子周辺のトラブルはその後も続き、終いには今参の局の祟りを鎮める怨霊の末社を

歓請して今参の局の怒りを鎮めることになりました。