赤門と言えば東京大学を連想する学業のエリートの象徴的建造物です。

 あの赤門は、元加賀藩上屋敷の御住居表御門であったものを明治36年に

現在の位置へ移されたものです。

昭和6年国宝に指定され、現在は重要文化財になっています。

 この赤門は、文政10(1827)徳川第11代将軍家斉の第21女溶姫が、
加賀藩第13代藩主三位中将前田斉泰に輿入れするときに作られたものです。

 徳川将軍の娘が、三位以上の大名と結婚するときに奥方は御守殿と敬称され
住居は新設され、その門は唐破風造りの丹塗りの黒金具を用いる決まりでした。
(前田斉泰は、溶姫を迎えることで従三位に昇進したので御守殿と称されるようになりました)

 徳川将軍の娘は一人じゃありませんからこのほかにも赤門があったはずです。

歴史資料や浮世絵に赤門が描かれたものがありそれを物語っています。

 将軍の姫君は江戸住まいになりますので赤門は江戸に点在していました。

一つは、赤坂の紀州藩の中屋敷がそれで、現在は赤坂御用地となっています。

また、日比谷にあった佐賀藩鍋島家上屋敷、桜田門にあった彦根藩井伊家上屋敷や、

霞が関にあった広島藩浅野家上屋敷などにも赤門がありました。

文京区の西教寺の門が赤門で、姫路藩酒井雅楽頭の屋敷から移築されたものです。

酒井雅楽頭は従四位でしたので格が下がりますが、赤門の流れを汲んでいます。


 赤門は、江戸時代のエリート階級の結婚の象徴でもあったんですね。


丹塗り(にぬり):
鳥居でおなじみの朱色の塗装
朱や丹という顔料は金属が原料で、虫害・腐食から建物を守る効果がある

 第2次世界大戦はドイツの電撃作戦で始まりました。

フランスの防衛線の要だったマジノ線はいとも簡単に破られてしまい、

フランスはあっと言う間にドイツに占領されてしまいます。

ドイツは占領地フランス防衛のために約1,000万個もの地雷を埋設しました。

 

 戦後、この地雷の除去が大問題になります。

 

 フランス政府は、ドイツ人捕虜を使って地雷除去を行うことを決定。

ドイツ人捕虜は、棒を持たされ、小銃を構えたフランス兵に監視されながら、

棒を地面に突き立てながらゆっくりと歩かねばなりませんでした。

 

『自分で蒔いた種を自分で刈らせる』作戦です。

 

 対人地雷は、信管に圧力がかかると爆発し、運悪く信管を突いたらアウトです。

危険極まりない作業でした、捕虜も慎重に地面を突いたことでしょう。

 さらに、除去した筈の地域で地雷が爆発する事故が起きたのですが、

フランスは除去した地域をドイツ人捕虜に歩かせて完全除去を確認したのです。

 

 赤十字がサンプル調査したところ、

サンプルの母数3,500人に対して、死亡150人、負傷259人だったそうです。

フランス全体で地雷除去に使役された捕虜は5万人に上ると言われています。

同じ比率で誤爆が起きていたとしたら2,000人以上が死亡した計算になります。

この地雷除去作戦は約1年間続いたようです。

 ドイツ人捕虜にとって生きた心地がしない1年であっただろうと思います。

 

人道問題を騒ぎ立てるフランスですが、その資格が本当にあるのでしょうか?

 

 

加藤清正と言えば、賤ヶ岳七本槍、虎狩、熊本城あたりを連想します

 

熊本城は、以前は隈本城と呼ばれていましたが、加藤清正が6年の歳月をかけて

改築し、その後熊本城と呼ばれるようになりました。

熊本城は、銀杏城とも呼ばれます。

改築した後に加藤清正が天守閣の前に2本の銀杏を植えたことに由来します。

 

その銀杏を植えた時に加藤清正がこう予言したと言い伝えられています。

 

『この銀杏が天守閣と同じ高さに成長した時に兵乱が起こるだろう』

 

豊臣秀吉により天下が統一され、これから平和な時代になると言う時に

その立役者であった清正がなぜ兵乱を予測したの分かりません。

天の声でも聴いたのでしょうか。

 

その後、幕末まで兵乱は起きませんでしたが、明治元年から2年にかけて

鳥羽伏見の戦いから戊辰戦争の戦端が開かれました。

その後明治10年になると西南戦争が勃発します。

 

明治維新後、熊本城には熊本鎮台(※1)が置かれていました。

明治10年の西南戦争で西郷軍は鹿児島から北上し5日後熊本鎮台を包囲します。

この時、二本の銀杏の木は天守閣に届く高さまで成長していたと言います。

加藤清正の予言から既に260年経っていましたが、予言は的中したのです。

 

熊本鎮台は政府軍が応援に駆け付けるまで50日間耐え抜きました。

熊本城が堅固であったのに加え、鎮台の士気が高く西郷軍の攻撃を跳ね返しました。

熊本城はその名に恥じぬ堅固な城でした。

加藤清正は、藤堂高虎、黒田官兵衛と並び称される三大築城家だったのです。

 

※1:鎮台

 師団制に移行する前の陸軍の編制単位の呼称。 明治4年全国を5つの管区に分割し、

各管区に本営と分営が設置されました。 

本営を鎮台と呼称し、東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)に設置されました。