陰陽道の由来は、古代中国の陰陽五行思想や自然哲学思想と言われています。 

これらの思想は仏教とともに、日本に伝わりました。

 朝廷には陰陽寮と呼ばれる役所があり、年月日、十干、十二支の運行を見て

年、月、日、時、方位の吉凶を判じたり、暦を作ったりしていました。

その技官が陰陽師です。

 奈良、平安朝の頃が最も盛んで宮中の行事の吉凶を判ずるのが仕事でした。

陰陽道は、今でいえば九星気学や四柱推命などの方位学、易学に近い物があります。


 陰陽師は、悪霊を静めたり、人を呪詛したり、式神を飛ばすと信じられていました。

まさに、映画の陰陽師の世界です。

当時、菅原道真の悪霊や平将門の悪霊が世を騒がせており、それらを鎮めるために
陰陽師が大活躍していたようです。

 

 平安朝では、陰陽道二大宗家として安倍家と賀茂家に力がありました。

元は一つで、賀茂忠行の子に賀茂保憲(かも の やすのり)がいて、その弟弟子に

安倍清明がいました。安倍清明が後に独立して安倍家を構えます。

 安倍家、加茂家が陰陽道の勢力を二分していましたが、競合していたわけではなく、

安倍家が天文博士、加茂家が暦博士を世襲して来ました。

 映画などで有名な安倍清明は陰陽道の占術に卓越した才能を示し、

宮廷社会から非常に信頼を受けていましたが、陰陽寮の頭にはなっていません。

官位は天文博士で正7位でしたから、あまり高い官位ではなかったようです。

 今昔物語や大鏡にも安倍清明の活躍が記録されています。

式神を使って門を開閉させたり、草の葉を使って蛙を殺したり、花山天皇の退位や

ご潜行を言い当てたり、藤原道長に献上された瓜の中に毒蛇が潜んでいるのを見破り

藤原道長の命を救ったという伝説があります。映画でもそんなシーンがありました。

 

 賀茂忠行の弟子として従う幼少の頃、忠行の牛車に従い夜道を歩いていると

前方から百鬼夜行が近づいているのを忠行より先に察知し難を逃れたとも言われ、

忠行に嘱望された優秀な弟子だったようです。

 陰陽寮は律令組織として明治4年迄続きました。

安倍家、加茂家の名前は既に無く、室町時代に安倍家は土御門(つちみかど)家に、

賀茂家は勘解由小路(かげゆこうじ)家へと改名されています。

 話は明治維新まで遡ります。

明治維新で、薩摩、長州を中心とする藩閥政府が樹立されました。

 警察機構はどうなっていたのでしょう。
維新直後、政府が首都の治安維持のために諸藩の兵による府兵制度を敷きました。

これは警察というより軍隊そのものでした。
 明治四年、東京府の警備に「羅卒」3,000人を当てて警察機構が生まれました。

司法省警保寮が創設されると同省が警察権を管轄し、東京府邏卒も同省へ移管され

警察機構がより組織的になります。
 警保寮の「寮」に違和感を覚えますが、これは律令制の組織単位を表す言葉です。

陰陽師安倍晴明が所属した組織を「陰陽寮」と呼びましたが、それと同じです。

 薩摩藩出身の川路利良が明治維新にふさわしい警察制度研究のため渡欧します。

フランスを手本にした警察制度が建議され、司法省警保寮が内務省に移管され、

1874年に首都警察としての東京警視庁が設立されました。

 当時、政府機関は薩長が牛耳っており、警察も同様に薩長主導の組織でした。

初代警視総監は鹿児島出身の藍川路利良が勤め、羅卒3,000人のうち約2,000人が

西郷隆盛の直系で固められていました。

 会話は、羅卒の7割を占める鹿児島弁が大勢となり、一般府県からの採用者達も

円滑なコミュニケーションを取るために鹿児島弁を使うようになってゆきました。

東京警視庁では公用語が鹿児島弁と言ってもいい位の状態だったようです。

 

 公用語が鹿児島弁状態の羅卒の間で国民との接し方が話し合われました。

人に接する時には呼びかけるような丁寧語が適切だろうと言うことになり、

女性に声をかける時、「おごじょ、こらこら」と言って声をかけたそうです

 

鹿児島弁で「おごじょ」は「お嬢さん」のことで、

     「こらこら」は「もしもし」に当たる丁寧な呼びかけの言葉です。

この「おごじょ、こらこら」が「おい、こら」の語源と言われています。

 羅卒も男、女性に声をかけるのは胸がときめく楽しみもあったでしょうか、

邏卒の間に「おごじょ、こらこら」が浸透し、

いつしかそれが「おい、こら」に変化して定着したと言われています。

 今の時代の「おい、こら」には咎めるような高圧的な響きがありますので、

何もしていない人でも身構えてしまうことでしょう。
当時の邏卒の「おい、こら」は、考えた末の丁寧語で愛嬌もあったようです。

 

ここで一句、

      『おい、こら』に、 明治は遠くなりにけり



 

平安京は、桓武天皇が794年(延歴13年)に平城京より遷都して造営しました。

現在の京都は、形もその中心も平安京とは違うようで、全体が東に寄っています。

そして、最初は「平安京」でしたが途中から「京都」と呼ばれるようになりました。

 

平安京の中央を朱雀大路が貫き、その西が「右京」、東が「左京」と呼ばれました。

(平安京は中国の都を手本にしており、天皇は北を背にして座し政務を行います。

 その時、東は左に、西は右になり左と右が地図の東西とは逆になります。)

遷都後20~30年経った頃から右京がすたれ始め、40~50年後には都のほとんどが

東に移ったとする記録が残っています。中心がずれているのはこのためです。

 

平安京内裏は960年(天徳4年)の火災で全焼したあと、幾度も火災に見舞われます。

やがて天皇は、冷泉院などの里内裏に常住するようになり、内裏の意義は低下します。

平安宮の内裏は鎌倉時代に焼亡したのち再建されませんでした。

南北朝以後は内裏の東に位置する里内裏であった土御門東洞院殿が御所となり、

近世になってその内域に紫宸殿、清涼殿などが復元され、現在の京都御所となります。

 

名前が平安京から京都に変わったのは院政の時代になってからだと言われています。

平安京の範囲は、南北が1条から九条、東西がそれぞれの京極とされています。

院政は平安京の範囲の外にある院の御所で行われるようになりました。

院の御所が平安京の外にあっては国政にそぐわないためか、平安京が京都と呼ばれる

ようになったと言われています。

 

白河天皇は、1086年(央徳年)に当時8歳の善仁皇子(堀河天皇)へ譲位し

太上天皇(上皇)となりますが、幼帝の後見として白河院と称し引き続き政務に

当たっています。これが院政の始まりと言われています。

 

鎌倉時代(1185年~)になると京都に「京都守護職」が設置されます。

この頃には「京都」の呼称が定着していたものと思われます。