お茶には緑茶、ウーロン茶、紅茶などありますが、

実はこれらのお茶は全て同じ葉っぱなのです。

ツバキ科の永年性常緑樹である茶の樹の葉から作られています。


お茶は発酵と深い関わりがあり、発酵のさせ方で異なるお茶に変身します。
ここで言う発酵とは、茶葉に含まれるタンニンを酸化させることを指します。

茶葉を揉むと酸化酵素が活発になります。

発酵が進むに従い、葉緑素が破壊され色は緑色から褐色に変化してゆきます。
発酵のさせ方とお茶の種類は次のようになります。


   発酵茶:代表は紅茶
  半発酵茶:代表はウーロン茶
  不発酵茶:代表は緑茶
  後発酵茶:代表はプーアル茶

 

不発酵茶は、茶葉を摘んだらすぐに「蒸す」「炒る」「炙る」「天日で干す」など

熱を加えることで酸化酵素を不活性化して発酵させないで作るお茶です。

お茶が緑色をしているのは葉緑素が破壊されずその緑色が保たれているからです。

 

後発酵茶は、緑茶と同じように茶葉を摘んだらすぐに加熱して酸化をとめます、

そして揉捻などの加工を経た後で、乳酸菌などの微生物によって発酵させます。

 

 「目安箱」は、八代将軍徳川吉宗が1721年(享保6年)8月に設置しました。

庶民の声を直接聞くのを目的に、毎月3回評定所の前に置かれました。
訴状を入れるための孔があいた白木造りの箱で、しっかりと施錠されていて、
余人が訴状に触れることなくそのまま将軍のもとに届けられました。

 目安箱は、その後、京都、大坂、甲府、駿府にも設置されるようになります。
庶民の生の声を聞くために、無記名の訴状が認められていました。
処罰されずに直訴できるので庶民からは好評で多くの意見が寄せられました。

これは、当時の階級社会では画期的なことで、名君徳川吉宗ならではの施策です。

 さて、吉宗の死後その目安箱はどうなったでしょう。
寄せられた意見には有益なものも多く、歴代将軍も価値を認め引き継がれました。
十一代将軍家斉は吉宗のように自ら訴状を読み、裁可を下していたと言われます。

 明治になっても目安箱は引き継がれました。
良い意見を述べた人材を登用できるように明治元年から記名が求められましたが、
無記名の私利私欲の訴状が増える一方で翌年に無記名の訴状の廃棄が決まります。

 明治6年に「上書建白は集議院、または地方庁に差し出すべし」と改められ
維新まで147年続いた目安箱は維新後たった6年で廃止されることになりました。
この変化は維新により世相が大きく変わったことが原因だと思われますが
明治維新を迎え、より開かれた時代になった筈なのに目安箱を失い
庶民が「お上」に気楽に意見を言う手段が失われたのは皮肉なことです。

 日本書紀によると・・・

 

 天照大神は、神功皇后に乗り移って仲哀天皇に新羅征伐を託宣しましたが
これに従わなかった仲哀天皇は急死し、神功皇后がに代わり新羅を討ちます。
 新羅征伐から凱旋して忍熊王を征伐するために紀伊の小竹宮に入りましたが、
いつまでたっても昼が来ない、ずっと夜のような状態でした。
どうしたわけかと尋ねると、「阿豆那比(あずない)の罪」の為だと言うのです。

「あずなう」とは、綢繆(まといからむこと)するあまり悶熱懊悩すること。

 神社に使える若い祝者(神官)の小竹祝と天野祝が清浄の職を顧みずに
善友(同性愛)となり、小竹祝が死んだので天野祝がその遺体の傍らで
自殺し、二人の遺体が同じ墓穴に葬られた為に昼が暗くなったと言うのです。
神功皇后が、墓を掘り返し二人の遺体を別々に埋葬したら昼が戻ったと言います。

日本書紀の巻九にある話で、男色に触れた最古の文献と言われています。

 これは、昼が夜のように暗いといった自然現象の怪異により発覚した罪です。
善友(同性愛)が神の怒りを触発するような罪であったことを意味していて、
神代の時代から同性愛はタブー視されていたことが伺えます。

異説もあって、
同性愛が問題なのではなく、「合葬」がいけないとする説もあります。