皆さんは、虞美人草で何を思い浮かべますか?

夏目漱石が職業作家として執筆した第1作のタイトルが「虞美人草」ですが、
ここでは、「虞美人草」の名前の由来に触れたいと思います。

中国は、項羽と劉邦の時代まで遡ります。

紀元前210年7月に秦の始皇帝が没すると各地で反乱が起き群雄割拠の時代を迎え、
最後の二大勢力になったのが項羽と劉邦です。
劉邦は、紀元前202年2月に皇帝に即位し漢王朝を樹立します。
項羽と劉邦は何度となく戦いますが、劉邦は負けっぱなしで何度も命拾いをしました。
劉邦が皇帝に即位した年の12月に両者は最後の決戦を迎えることになります。


項羽には愛妾がいて「虞美人」と呼ばれていました。
虞が姓なのか名なのかの議論がありますが、漢書・陳勝項籍列伝の中で
『有美人姓虞氏』(日本語訳:虞氏という姓の美人がいた)
と記されており「虞」が姓だと主張する人が多いようです。

「美人」は、容姿が美しいとする説もありますが、側室の階級だとする説が大勢です。
前漢の時代だと、皇后の下に順に昭儀、婕妤、娙娥、容華、充衣、美人、良人、・・・
と呼ばれる側室の階級がありました。
項羽の女性関係は謎が多く、記録に残っているのは虞美人だけのようです。
美人は身分の高い側室ではありませんが、項羽に皇后がいたのかは分かっていません。
項羽は、この虞美人を戦場にも帯同するほどに寵愛していたようです。

項羽と劉邦の最後の戦いは「四面楚歌」で有名ですが、

項羽は戦いに敗れ、800の兵を引き連れて戦場を離脱します。

脱出前に項羽は虞美人に漢軍への投降を勧めますが、虞美人はそれを拒否します。

虞美人は、脱出の足手まといになるのを嫌い項羽に借りた剣で自害してしまいます。


虞美人が自害した時に流れた血の中から美しい花が咲いたという伝説があります。
これが虞美人草の由来と言われています。

史記では、項羽の最後は屈指の名場面ですが、

その最後を鮮やかに彩ったのが虞美人であったと言えます。

 江戸時代は性事が開放的だったと見えます。

現代の「バイアグラ」が霞むほどの人気を集めた絶倫薬に「長命丸」がありました。

室町時代からある薬なんですが、疲労回復に効果があるとされてきました。

薬の名前から「長生きできる薬」を連想しますが、絶倫薬だとはお釈迦様でも・・・

 

長命丸は劇薬で飲むことは考えられず、室町時代の薬は名前が同じだけなようです。


 江戸時代にもアダルトショップがあり、両国の四目屋(よつめや)が有名です。

長命丸、帆柱丸、などの媚薬、肥後ずいき(ずいき)などの淫具を売っていました。

四目屋は、戦前まで続いたその道の老舗で戦前は銀座に店があったそうです。


 長命丸は「丸」とありますが飲む「丸薬」ではありません。

唾液で溶かして亀頭に塗りつけます。すると、ヒリヒリと適度な刺激があるとか・・

これを塗って事に及ぶと男性は果てることなく延々と続き、女性が根を上げるそうです。

女性がギブアップしたら男性がお茶か水を飲むと一気に果てると言われています。

水を飲むと果てるなんていかにも嘘っぽいです話ですが、本当のところは?です。


 薬には、ヒキガエルの皮脂線の分泌物、アヘン、硫化水銀が含まれていたらしく、

チョット引いてしまいますが、知らなきゃそれはそれでいいのかも知れません。

亀頭の過敏性を麻痺させ射精を遅らせる効能があったようです。

バイアグラとは異なる効能なので、単純比較できませんが人気があったようです。

 

 小噺を一つ

 

 長命丸を長生きのできる薬と勘違いした男がいました。

噂の薬を四目屋で売っていることを知り早速買いに出かけました。

店員から「倅の頭に塗るんですよ」と言われた男は、家に帰るや否や息子を呼びます。

 

 「おらが長生きできる薬を買ってきた、おまえそこに座れ」と息子を座らせ、

おもむろに長命丸を唾で溶かして息子の頭に塗り始めました。
 息子は「なんかおかしくないかい、おらの頭がかっか、かっかしてきたぞ」

と訴えますが、男はお構いなしに溶かした長命丸を全部塗りたくってしまいました。

その間も息子の頭はかっか、かっかするばかりです。

全部塗り終わると男は「これで長生きできるぞ」と大喜びし、寝てしまいました。

みんなが寝静まった深夜・・・息子の頭がむっくり起きあがったそうです・・・

 もう一つ

 越後から江戸見物に来た老婆が両国で、「長命丸」の看板を見つけます。

てっきり長生きの薬と思い込み老婆は長命丸を買いました。

宿に帰って早速薬を飲んだものの、体がカチンカチンに硬直してしまいました。

宿の主人が老婆を介抱しながら何をしたと尋ねると、「長命丸を飲んだ」と言います。

幸い宿の主人が長命丸を知っていたので、老婆にお茶を飲ませてみました。

すると、立ちどころに硬直が解けたそうです。


 冒頭触れましたが、長命丸は劇薬で飲むことはありません。

硬直と勃起を掛け合わせ話を面白くしようとしたようですが、無理があるようです。

それでも、当時の笑い話になったようです。

 

 耳にする機会の多いフレーズですが、その起源は・・・

 話は、江戸時代まで遡ります。

歴代の将軍は用兵の鍛練を兼ねて鷹狩りをやるのが年中行事だったようです。

徳川家康は、小菅・青戸・千住・白山・高円寺・品川・六郷にお狩場を作ったとの

記録があります。これ以外にも歴代将軍が作ったお狩場があります。


 徳川家斉がよく使ったお狩場が今の渋谷あたりにありました。

お狩場には、「鳥見役」という仕事があって、お狩場の整備・巡察をやりながら、

鷹の餌となる鳥をお狩場に出来るだけ多く生息させる事を生業としていました。


 権兵衛と言うのんびり屋の百姓がお狩場近くの村に住んでいました。

その権兵衛は、麦の刈り入れ時になっても一向に刈り入れしようとしません。

村人が「早く麦を刈り取らないと穂から芽がふくぞ」といくらせき立てても、

「麦刈りすると、腰が痛くなるので、そろそろやるんだよ」と動こうとしません。

木陰でぷかりぷかりとたばこをふかすばかりです。

 そんな権兵衛ですが、鳥の事になるとガラッと人が変わります。

権兵衛は、子供のころから野鳥に餌をやったり、育てたりと野鳥に親しんでいて、

野鳥を集めることにかけては権兵衛の右に出る者はいませんでした。


 そんな権兵衛が野鳥の知識を買われ、五人扶で駒場の鳥見役を仰せつかります。
毎日野鳥の餌をまき、番小屋の炉辺に寝そべり、餌を食べに来る小鳥たちを眺める

日々が続きました。

 しばらくすると、権兵衛が餌をまくとカラスが餌を盗みに来ることに気づきました。

そのカラスは木の上にとまって権兵衛が餌をまくのを待っているのです。
権兵衛が餌をまき終って小屋に戻るとカラスが悠々と降りてきて餌を啄みます。

のんびり者の権兵衛は、それでも三度に一回くらいはカラスを追い立てますが、

カラスも心得たもので権兵衛が小屋に戻るとまた餌を啄みに戻ってきます。

権兵衛は完全にカラスに見限られていたのです。

 そんなやりとりが江戸にも伝わり、評判になり唄に唄われるようになります。

    「権兵衛が種まきゃ カラスがほじくる
     三度に一度は追わずばなるまい
     ずんべらずんべら」

「権兵衛が種まきゃ」と「餌」が「種」になったのは伝わる過程で変化したようですが、

百姓が一生懸命働いても(種を撒いても)カラス(武士)が上前を撥ねるにも通じ、

当時の庶民が腹の中で思っていたことがにじみ出ているようにも思えます。