沢庵(宗彭)禅師はたくあん漬けで有名ですが、

安土桃山から江戸時代前期にかけての臨済宗の僧で紫衣事件で有名です。

 

 紫衣とは、紫色の法衣や袈裟を指し、天皇が高徳の僧、尼に着用を勅許していました。

幕府は天皇の権威を削ぐ意図で禁中並公家諸法度を制定しこれに干渉を始めます。

後水尾天皇は慣例通り、幕府に諮らず十数人の僧侶に紫衣着用の勅許を与えましたが、

これを知った幕府(徳川家光)は、寛永4年(1657)事前に勅許の相談がなかった事を

禁中並公家諸法度違反と見なし多くの勅許状の無効を宣言、紫衣を取り上げを命じます。

幕府の強硬策に対して朝廷は強く反発し、大徳寺、妙心寺など大寺の高僧も朝廷に同調し

幕府に抗弁書を提出しました。

 この時の大徳寺住職が沢庵(宗彭)禅師だったのです。

寛永6年(1629)幕府は、沢庵ら幕府に反抗した高僧を出羽や陸奥へ流罪としました。

その後、沢庵禅師は徳川秀忠の死による大赦で流罪が解かれ江戸に帰されます。

とのとき、徳川家光は柳生但馬守宗矩の提案で、沢庵禅師に品川の4万坪の土地を与え、

そこに万松山東海寺を建てその開山に沢庵を迎えることとしました。

 沢庵は、これを受け入れた時から、「野僧に徹すべし」の生き方を捨て、

自身を権力者にこびる「つなぎ猿」と軽蔑しあざ笑う晩年だったと言われています。


また、沢庵禅師は宮本武蔵の師匠としても有名で、こんな名言を残しています。

    「葉一つに心をとられ候わば、残りの葉は見えず、

      一つに心を止めねば、百千の葉みな見え申し候」

 

この他数々の逸話が残されていますがその一つを紹介します。

 

沢庵が小僧一人を伴って田んぼ道を歩いていると老婆に呼び止められました。

「禅師様でございますか、

 厚かましいお願いですが、地獄で閻魔様に責められない方法を教えてください。

 私も七十の坂を越しいつあの世に行くか分かりませんが

 キット閻魔様の前で酷い責め苦に遭うに違いありません。

 それを思うと夜もおちおち寝られません。」

と老婆が訴えるのです。

 

そこで沢庵は矢立をとって懐紙へ一筆たしなめました。

「造りおく罪は山ほどあるなれば、閻魔の帳はつけどころなし 

                    沢庵より 閻魔大王さまへ」

そして老婆に、

「死ぬときにこの手紙をしっかり握っているのだぞ、そして閻魔の庁に着いたら

 これを渡せば、決して責め苦に遭うことはない」

と大真面目に言いながらその手紙を老婆に渡しました。

老婆は涙を流して喜んだそうです。

最後の室町幕府将軍足利義昭は表舞台から姿を消してその後どうなったのでしょう

 

織田信長存命中に何かと面倒ばかり起こした愚かな将軍のイメージが強いですが、

意外と活動家で、その原動力は幕府再興、政界復帰願望にあったようです。

 

武田信玄死亡の前と後で信長に敵対し2度挙兵しますが、いずれも敗北します。

2度目の敗北で京から追放され事実上室町幕府は滅亡し、信長包囲網は瓦解します。

 

義昭は信長に追放されてからも備後で毛利の支援を受けて反信長活動を続けています。

上杉謙信を頼り第二次信長包囲網を構築しますが、これも謙信の急死で瓦解。

義昭が頼った人はその直後に急死するパターンが重なっています、これが運命?

 

本能寺の変で信長が没すると目の上のたん瘤が消えたとばかりに政界復帰を試みます。

まず、木下藤吉郎に秋波をおくるも応答が無く無視されます。

それではと、今度は柴田勝家に接近します、勝頼を味方につけ京に上ろうとしますが、

織田家内紛で柴田勝家が滅ぼされると政界復帰の夢も潰えてしまいます。

やはり頼った人が死んでしまいます。

 

その後どうしたか・・・なんと秀吉の一門として踏ん張っていました。

天正16年(1588)に出家し「晶山道休」と称し秀吉から1万石の知行を与えられます。

晩年は秀吉の御伽衆として秀吉の話し相手を務めていたようです。

秀吉の朝鮮出兵の折、「室町内府公」の称号を得て軍装で出陣したと言います。

 

幕府再興、政界復帰を目指して活動したようですが、時流には乗れなかった足利義昭、

最後に「室町内府公」の名前を得られたことが唯一の喜びだったかもしれません。

 年末になると必ず放映される忠臣蔵、

あまりにも有名な話で事の成り行きをそらんじて説明できる人も多いことでしょう。

 

 では、赤穂藩の領民たちの反応はどうだったでしょう?

これはあまり語られることがありませんでしたが意外な話がありました。

 

 赤穂藩の改易を「領民が赤飯を焚いて喜んだ」と言うのです・・・

 

 赤穂藩は、現在の兵庫県赤穂市、相生市、上郡町周辺を領有した藩で、

池田輝政の五男正綱が分家して立藩されるも、二代で改易されてしまいました。

その後、不祥事で国替えになった常陸笠間藩の浅野長直が移封され藩主となります。

忠臣蔵の浅野長矩は第三代藩主になります。

 

 長矩治世で二度の血縁親族による刃傷事件が起き、長矩は謹慎を命じられています。
そして、元禄14年(1701年)に長矩(内匠頭)が江戸城中で刃傷事件を起こします。

浅野家は、刃傷事件に縁の深い家系なのでしょうか、因縁のようなものを感じます。

 

 当時の赤穂の塩はブランド品で生産量、質ともにトップクラスでした。

浅野家三代で開拓した塩田は約100ha、甲子園球場25個分あったと言われています。

赤穂藩は石高5万石でしたが、塩の生産により8万石~10万石相当あったようです。

 

 一説では、塩の生産があっても赤穂藩は赤字財政だったと言われています。

家老の大野九郎兵衛が塩の専売制、藩札発行を実施し財政の立て直しに取り組み、

功を奏して財政難は小休止できたようですが、そこで刃傷事件が起きています。

 

 改易が決まると藩札の回収で大わらわ、広島藩や岡山藩の手も煩わせたようです。

藩札は塩の取引で活躍したのですが仇となってしまいました。

 製塩業者も多く専売制の影響は広範囲にわたったと思われます、特に製塩業者が

賃金労働者に成り下がってしまい、藩に対する不満が鬱積していたようです。

改易が知れ渡ると不満を持っていた領民が赤飯を焚いて喜んだと言われる所以です。

 

 この話には異論が多く、

塩の生産で藩財政は潤い、多額の金銭を領民に貸し付ける余裕があったと説きます。

そのような為政者たちが領民から恨まれていたとは考えにくく、

領主の切腹や、路頭に迷う家臣団の不幸を領民が喜ぶはずがないと言うのです。

仮に喜ぶ者がいたとすれば、それは赤穂藩から金銭を借り入れていた領民たちで

改易されると幕府が借金のほとんどを棒引きにしたのでそれを祝ったのだと言います。

 

 改易に赤飯を焚いて喜んだ者はいたのかも知れません。その動機はと言うと、

専売制で賃金労働者になった不満から赤飯を焚くと言うのはちょっと無理があります。

改易が専売制廃止に直結するものでもありませんから、焚くにしても早すぎます。

 借金を棒引きにしてもらって喜ばない者はいません、多額の借金がある者なら

赤飯を焚いても不思議ではありません。真相はここら辺にありそうです。