映画「国宝」ようやく観たよ!遅っ!
以下、全く個人の感想&思い込み、寄せ集め情報です!
原作もパンフも未読。
映画未見の方、要注意で
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どうだったかって?
いや、映像美は圧巻だし、これでもかとぶち撒けられる激情の嵐に、まずは静かに東宝ありがとう、だよね。身内の松竹映画だったらまず描くことは出来なかったとしみじみ思う。
まぁ、松竹の話で東宝が大当たりの大興行収入ってのも面白いと言えば面白い
(もちろん本丸歌舞伎座も国宝効果で早速8月お切符売り切れの部も出ているみたいでスゴいな!)
いつも見ている南座、(よく歌舞伎役者のブログに登場する)あの屋上、ロビー、国立劇場の楽屋入口、永楽館の小屋そのものも。←ごっちゃになっててあー頭の中が混乱するー!
舞台装置の裏はあれこれ番組で良く見るけれど、映画の中で見る臨場感ありまくり、カメラの動きがすごすぎるよ!!
そして、肝心の物語ですが。
いや、それはもうどれもこれも、現在でもいつも普通に歌舞伎ファンは見聞きすること。
現実のほうが100倍エグいんですよ!!
その人間関係も芸も全てが歌舞伎なんですよ!!
この映画が流行って、よく歌舞伎役者が「うちにも国宝居ますが…」と書き出すこと良くあるけど、人間国宝とはあくまでもその人が演じている時だけが国宝で、味噌汁飲んでる時は、違うのね。
国宝まで上り詰めた、血のない女形俳優
と言えば。。そりゃもう◯三郎様しか居ないわな。
この人のモデルは誰?エピソードは誰の?と、聴きたい方のために浮かんだことを挙げてみますが、もうごっちゃごっちゃに混ぜて煮込んでわからない料理に仕立ててあるから、果たしてソレに意味があるのかもわかりません😂
まずは冒頭のそのスジの新年会シーン。
ここはもちろんこの興行の世界が、あっちと深ーいつよーい繋がりで出来ていることを示唆しているよね。
つか、もう繋がりとか言うことじゃなく、血もそだけど、この興行の世界、そもそも関わり深すぎる。
その姐さんを、これまたそのスジとは切っても切れない政治の世界の孫である宮澤エマが演じているのもなんかイイぞ狙ってるな!
さらに、松◯の社員として出てくる三浦貴大が「この世界、結局血なんだよっ!!」と友和百恵の次男なのに大見得切ってるのも面白いぞ狙ってるだろこれも!
ここで出てくる幼馴染み、一緒にピストルもって…の徳次クン!割と最初のほうで楽屋暖簾に送り主として後で名前が見えるのが歌舞伎ファンのミニツボ!きっとそのスジでのし上がって陰ながら支えてくれていることが暖簾で判る(これ私見逃したけど友人談)のも良い。
その後、出てなくてもほんのり想像出来るのもこの映画の良いとこだ。
原作から「それぞれの女性の生き様の部分」をごっそりカットして削ぎ落としているみたいだから、これはゆっくり読まないとね。
数年前にまさに御曹司の当時の菊之助がAudibleで朗読出してるみたいだから、聞いて見よ!
そんなに削ぎ落としてても3時間もあるんだから長いよ原作上下2巻だ。
私としては、やはり最後の病からの曽根崎心中のクライマックスにはちょい…モヤッとがある。
これだけはあり得ない、と言うことがぶち込まれてるからね。←それ絶対ムリよね
まぁ、小説ですから。
そこが、2人を描く上で必要だったんだから仕方ないか!
喜久雄の紋もん、と言うハンデは、◯様にとっては身体が弱かった子供であったのに、そこから芸を磨いたことを連想させるよね。
若き喜久雄が先斗町で芸子遊び、ってのもあるある。
今でも浅草じゃ総見でずらーりと芸者さんが来る日があるし、劇場の日常?楽屋訪問して簪に名前を入れてもらう風習とか、当たり前の世界。
吉右衛門も小学校の京都修学旅行がつまらなくて、抜け出して親の馴染みの芸者さんとお座敷遊びをしていて連れ戻されたと言う逸話もあるくらい。
映画はちょうど1960〜現在ということで、まさに今の大御所あたりを描いているのもイイ、自分が見てきた1980〜なんて懐かしすぎてハァハァしちゃう〜!
旧歌舞伎座のロビーでゴザ敷いてのリハーサルなんか、もう今はちゃんと上に稽古場あるから、忘れられていく風景だし。
信じられ無いけどロビーで数日チョコチョコっと合わせてもう本番!(細かいとこはそれぞれのお宅に伺って)が歌舞伎ですよ。
すべては舞台で、ですから😂
御曹司と部屋子or弟子が一緒に学校、ってのもちょっと、、と思うけど、これ御曹司同士ならいつものこと。
喜久雄と俊ぼんの通学シーンは、私達ファンにとっては当代團菊の2人に見えたよね。
あの同じ学校幼馴染の絆が、◯十郎を歌舞伎座へしっかり先月襲名で引き戻したのを目のあたりにしているから尚更だよ。
色々あったとは思うけど、今回わだかまりを解いたのも鬼平幸四郎?!いや、やっぱりその後ろにまずは菊さんだろうと思う。
喜久雄が直面する冷遇期の
「親が無いのは首がないも同じ」については
これは松竹と一座の関係が、雇用関係ではないことが、全ての根源なんだよね。
そもそもの成り立ちが一座芝居であって、それを松竹が纏めて興行をするようになったわけだから、当たり前と言えば当たり前。
だけど雇用関係でないことで、実際はコロナの時も、せめて大御所には見舞金くらい出してと声が上がったほど大変だったみたいだし。
一座、だから「主役の親」が幼いうちに亡くなれば、後ろ盾が無くなり、ほかの一座の脇に出してもらうしかない。←どんな名俳優の子供でも同じ
興行主と自営業の俳優一座、数々の役者の不祥事にも松竹は関係せずに済むし、江戸時代からそうだったわけだけど、これもいよいよ新時代にはそうは行かなくなってくるのかも。
今はまだまさにそれで、ずーっと脇やドサばかりやってるあの兄弟も、歌舞伎座にずいぶん出るようになってきた。そろそろ芯をとる日も近い!←もちろん襲名あってだろうけど
とは言え、先代の團十郎も当代仁左衛門も、あの兄弟をちゃんと引き上げ、育てて来たのも事実。(パパ同士の絆!)
田中泯の万菊が俊ぼんを拾ったのも、そう言うことよね。←歌舞伎は大きな家族みたいなもの
あ、老いの境地で鷺娘を踊る怪演の田中泯(ダンサーでもあるのよね)はまぁ、どう考えても◯右衛門さんしかないわな!
しかも、大好きなシュークリームを楽屋に常備、可愛い縫いぐるみに囲まれてないと落ち着かないってあーた!←喋り方までそのまんま
パンダの縫いぐるみと花が喜久雄たちの楽屋に持ち込まれるところは本当に嬉しく可笑しかった!
(◯右衛門さんも徹子の部屋にもいつも縫いぐるみと出てた記憶)
さてさて、余談はこの辺で
いよいよテーマの「血」と「才能」についてですが
それはもうどっちもそう、としか言えない。
昔から血であって血ではない。
そこらへんはまた次回に