やっと少し消化できてきたので、今回のエピソードの題材となったいじめというものについて、私見を綴りたいと思います。
ワタクシの知る限り、いじめというのは『対象者や周囲の人間を支配すること(によって放出される脳内麻薬)への依存症』です。
被害者は誰でもよく(選定理由はほぼこじつけ、あるのはきっかけぐらい)、ただ『自分の力が上だから相手にいやがる(であろう)ことをさせることができる(または殴る蹴るして自分の強さを誇示することができる)』というタイプの自己肯定感を得ようとします。
ただ、その肯定感には、何の成長も伴いません。
そのとき放出された脳内麻薬が切れてしまえば、残るのは離脱症状。ただそれだけ。
新たな肯定感を求めて、行為は執拗に繰り返されます。
しかも、脳は刺激に慣れて脳内物質を放出しにくくなっていきますので、より強い刺激を求めて被害者へのいじめの内容はエスカレートしていきます。
いじめの本質が加害者の依存症にあるかぎり「いじめられる方にも問題がある」なんて、とんだ寝言だということは明白です。
対象者にあったとすれば、それは『隙』ですが、この世に隙のない人間など皆無なのにそれを責める、そして、隙があるから相手を攻撃してもいいわけなどないことは置き去りである、この点においては、性犯罪における被害者の自己責任論にも似ている気がします。
加害者のいじめへの依存は、ある意味食っても食っても腹が一杯にならない無限ループの餓鬼地獄のようなもので、それはそれで辛いのではないかとは思いますが、同情する気は一切ないですよ(フンガッ!)。
おっと、ちょっと鼻息が荒くなってしまいましたが、依存症への対策を組み込んでいかないと、目先の現象を押さえるだけではなかなかうまくいかないのかな、などと生意気に思っています。
ときに、この「いじめられる方にも問題がある」は、何のためにあるのか。
ミもフタもないけど、周囲の責任逃れのためです。
『いじめ』って、ある意味とても便利な言葉で、暴行も傷害も金銭や犯罪の強要も、場合によっては強盗も(もっと微妙で陰湿なものもね)この妙な言葉の中に包み込んでしまえて、で、最終的にその許すべきでない行為全てに向かい合うことを放棄して、被害者に丸投げしちゃったりできるのですよ。
下手に口を出して、今度は自分がロックオンされるのは怖い。出来れば関わりたくない。
そう思っている時点で、実は被害者に非がある訳ではないことに気付いていても、好んで目撃したわけでもないのに、背負うには重いと目を逸らす。
しかし、その責任逃れは、同時にいじめ行為の承認ともなります。
親や大人(先生とか)が加害者の代わりに頭を下げに行ったり、お金を使って揉み消しするのも同様です。
臭いものには蓋をする方が簡単ですが、加害者は、そういう大人がただ大人たち自身のためにそうしていることも、自分が臭いもの扱いされていることも、結構つぶさに見ています。
それは、加害者にとって、まあまあの闇になり得る要素です。
加害者よ、人を支配できるぐらいお偉いなら、悲劇のヒロインみたいに闇に浸かってないで、反発して自力でその闇から出てこいよ。と割と冷たい目で見てしまいますけどね。
アア、脱線しちゃった。
ワタクシとて勇気のない一市民ですが、なるべく声は上げていこうとは思っていますよ。
このような面倒な乱文を最後まで読んでいただいてありがとうございました。
実際の対策がとても難しいこと、根気がいること、真面目に対峙している方々が大変苦労と苦悩を抱えておられること、その打開には周囲の『悪いことは悪いし許さない』という意思表示がとても大切なことなど、本文にうまく盛り込めなかったことを最後に記して、この文章の結びといたします。