NHKで放送されている『妄想ニホン料理』という番組で、スペインや台湾の方が『沼のような』とか『酒飲みと年寄りが好き』てなヒントから、自分が思うところの(しかもとても美味しそうな)“ぬた”を調理されていました。
“ぬた”という、なんとなく粘り気のある語感と妄想はよく似合うな~と楽しんだ一方で、「妄想って言葉もずいぶんポップになったものだな」と、またしても時代の変化を肌で感じる、ジャンル的には“ぬた”好きでもおかしくないオイラであります。
口では偉そうなことをいいますが、オイラも現代的POP妄想の使い手に違いありますまい。
毎朝ニコニコしながら「なんでやねん!」とアテレコして喜んでいるぐらいですから(ようあきへんな…)。
そういや、会社のロッカールームに入るとき、だれもいないと分かっていても必ずノックして入るのを人に「なんで?」とたずねられ
「もし、中に見えないおばちゃんがいたら、いきなり開けたらびっくりしはるかな~と思って…」
と答えてドン引きされたこともあります。
そんなオイラですが、妄想という言葉で思い出すのは、ある重度のアルコール依存症患者さんが「脳みそが爆発して頭が粉々に飛び散った!!」と騒ぎだしたきに、周囲の人が一緒になって散らばった頭のカケラを拾い集めていた光景です。
この目で見ているというのは、外界からの光を網膜のセンサーでキャッチし電気信号化したものを脳で解析、再構築した結果そう判断した、ということで、厳密には見たまんまではないようです。
センサーの欠損部分を補整したり、なんらかのノイズが再構築のパーツに使われたりなんてことはままあるわけですが、見る人にとっては、再構築された内容が現実というか真実というか…
これは、視覚のみならずすべての感覚で起こることなので、その人が確かだと感じる限り、妄想こそがその人の身に起こっている出来事になるのかな、と思います。
理性とトレーニングで妄想や幻覚を区別することも大切なんですが、ある程度はあるものとして持ち主に寄り添うことが大切なのだと思います。
でも、自分がやってもいないことをやってるとか、妄想している人に吹聴されたら腹立つやろな~