そんなある日。
いつも通り病室に入った私は、とても違和感を感じた。
何かが違う…。
臭いだ。
病室の中は今までと違う臭いがした。
((まさかっ…!?))
ダーリンも義姉も、身内などで癌患者との接触があった。
「癌の人はね、普通の病気とは違う、独特の臭いがするんだよ。」
2人から何度かそんな話を聞いたことがあった。
((まさか母ちゃん…。いやっ、まさかね。))
ふと心によぎった不安を、強烈に打ち消すと
《母ちゃん♪おっはよーっ♪》
と、側へと歩み寄った。
ところが。
やがてその疑問は、悲しい現実となって私にのしかかってくることになる。
その日。
「ガーゼ換えますからねー。」
そう言って、数人の看護師が入ってきた。
((んっ!?ガーゼっ?))
そう思う間もなく、部屋を追い出されてしまった。
「はぃ、チョッと我慢して下さいねー。」
何やら忙しげに動き回る様子が伝わってくる。
ふと、部屋の中を見たとき、風でカーテンがめくれた。
((あーっ!!))
中の様子が気になり、部屋の外から様子をうかがっていた私の目に、とんでもない光景が飛び込んできた。
真っ赤な血…
思わず息をのんで立ち尽くす。
それは…義母の脇の部分から、鮮血が溢れている様子だった。
義母の体を我が物顔で暴れ回った癌細胞は、ついにその柔らかい皮膚を喰い破り、体外に飛び出した。
そのせいで出血していたのだ。
ショックなんて次元じゃなかった。
どぉして…
ほんとにっ?
なんでっ…
何がどうして、どうなっているのか理解出来なかった。
【義母】と【死】が頭の中でグルグル回り、追いかけっこをする。
嘘だっ…
嘘だよっ…
認めたくないっ…
認められる訳ないっ…
しかし現実は何より厳しく、辛いもんだった。
そして朝の違和感を思い出す。
母ちゃん…
もぉ駄目なのっ!?
私の中の【母ちゃんは絶対に死なない】という気持ちを、目の前で目撃してしまった赤い血が浸食してゆく。
今までの、根拠はないが揺るぎない自信の固まりだった私の気持ちは、砂漠の砂のように崩れてゆく。
もう…認めざるを得なかった。
義母の死をこれっぽっちも考えたことがなかった故に、そのショックは大きかった。
その後。
本人の前で平静を装うのが、本当に大変だった。
検査の為に義母のいなくなった病室で、つい、涙をこぼす。
たまたま病室を掃除に来た馴染みのオバチャンがそれに気付き
「辛いのはわかるけどっ!あんたがしっかりしなきゃっ!!」
と言う。
((解ってるっ!!))
曖昧に笑い、うなずいてその場をやり過ごす。
((そんなことはアンタに言われなくとも解ってるっ!!))
私が、どれほど義母の回復にこの気持ちを注いでいたか。
治ると信じて疑わなかった。
それなのに、あの鮮血を見てしまった時のショックといったら。
それでも。
それでも義母の前では、何があっても取り乱しちゃいけない。
絶対に悟られてはいけない。
そう思って必死に耐えていたのだ。
だからこそ、義母のいない病室ではこらえきれず、いないその時だからこそ、自分の感情を解放させた。
それを、表面だけで判断し、解ったようなことを偉そうに言われる筋合いはなかった。
それは親切心でもなんでもない。
無神経だっ。
その日は、ボロボロに崩れてしまいそうな気持ちを必死で繋ぎ、普段と変わらぬ一日を過ごす。
《じゃあね母ちゃん。また明日ねっ♪》
明るく言い残し、病室を出る。
ヘルメットをかぶり、サングラスをすると、溢れそうな涙を必死にこらえて原付を走らせた。
走り始めると、もう堪えきれなかった。
次々と頬を伝う涙。
母ちゃん…
母ちゃん…
母ちゃんっ…
今まで…
今朝まで、元気に退院すると信じて疑わなかった私。
というより、義母と死が全く結びつかなかった、考えもしなかった私は、一気に崩れてしまった。
しかし。
望みが100%潰(ツイ)えた訳ではない…
そう自分に言い聞かせ、気持ちを切り替えてゆく。
でも。
実際はそんな簡単にはいかなかった。
それで今度は、あのショッキングな出来事を考えないことにした。
つまり、なかったことにしたのだ。
とても受け入れきれなかった。
逃げたかった。
目の前の事実から目を反らし、逃げたのだ。
今の私には、そうすることしか出来なかった。
そしてついにお医者さんから
「いつ亡くなってもおかしくない状態です。覚悟を決めておいて下さい。」
そう言われてしまった。
長くても数日だろうと。
ダーリンは仕事を休んで母親の側にいたかったが、代わりの人が見つからず。
【死に目に逢えずとも仕方ない】と思っていた。
私は、翌日も普段と変わらず病室で過ごした。
義母は
いつ起きているのか
いつ寝ているのか
解らないくらい身動きひとつしなくなっていた。
目を見て、起きているのかどうかを判断するしかないくらいに。
時々、寝だこ防止の為、看護師に体の向きを変えられていた。
あまり動きはしなかったが、意識はチャンとあったので、痛いとか、もう少し右とか、そういうことはアイコンタクトと口パクで伝えていた。
そして…。