翁の方財=ただいま94歳= 我が祖父 島髙重太郎を偲んで(2) | 行動派行政書士のチャレンジとつぶやき(医療・産業廃棄物・出入国在留許可(出入国管理)・建設業・農地法・土地利用・相続・民事法務等)

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翁の方財は、方財に生まれ一生自分の郷土を離れなかった私の祖父島高重太郎が自分の人生を振り返ってつづる「“翁の方財“ わが94歳の人生」は、小嶋政一郎著「方財島」のかゆいところに更に手を貸すもので、郷土の川や海浜や、一筋の小径、一木一草に至るまで昔を語るものの少なくなった今日では貴重なものになりました。



落第を願い出る

方財小学校の校舎は明治22年に改築されていたが、いたるところがいたんでいた。
天井も壊れ、障子は破れ、屋根も穴があり、傾いてしまっていた。冬の寒い浜風が吹き込むときは寒くてたまらず、夏の「しけ」(時化・暴風雨)のあとには、補修をしなければ授業ができないことが続いた。
このため、明治36年(1903年)には、大改築することになり、4年生は観音寺を仮教室にして通学した。
立派な校舎が出来上がり、7月6日には、全校児童で机や椅子などの学校用具を新校舎に運び込んだ。
「あばちん(新しい)の校舎じゃ」
「ピカピカの教室を、よごすなよ」
みんな、大よろこびで、重い机を運び、新しい教室で学習することのできる日を待ちながら通学し、整備作業にも熱中した。
新校舎の落成・開校式が行われたのは11月16日。
町の幹部や区の代表者たち約80人の招待者が並び、それぞれ開校の祝辞があり、児童を代表して私が新しい校舎を作っていただいたお礼と「校舎を大切にし、しっかり勉強します」と誓いの言葉を述べた。
この日が方財小学校の創立記念日となっている。
開校式がすんだあと、午後2時から「記念運動会」があった。校庭は狭かったので、十分に競技は出来なかったが、にぎやかだった。
印象に残っているのは「網くぐり」であった。子供の頭が入るくらいの網の目を、ナワで編んだ広い綱を敷いて、そね下をくぐるのであり、網の目から頭が出るのでひっかかり、それを外しながら前に進むのであるが、うろたえると、かえって進めず、網をかぶって苦しんでいるのを見て。みんな大笑い。




新校舎ができたのは、現在の方財公民館があるところ。すぐ前に稲荷神社があり、大きな松の古木と竹やぶが広がっていた。稲荷神社は、のちに運動場を広げるとき、方財神社のそばに移された。運動場の拡張にあたったのは「太世話人(区長)の高浜磯吉さんらであり、
「大正元年(1912年)11月、校地430平方メートル(130坪)拡張」と「延岡市史」(昭和37年)にでている。
卒業式を迎えたのは、明治37年の3月27日。貧しい生活の中で、進学することはとてもできないが、学校での勉強は続けたいと思い、校長の宮田竹次郎先生に、
「もっと学習したいのです。“落第“させてください。学校なや通わせください。」と真剣にお願いした。
「君は一番という成績であるので、そのようなことはできない。しかし、卒業しても学校に来ていいぞ、勉強しつたいいぞ」とおっしゃった。
「卒業式をしてからは、仕事をして親の手助けをしなければなりません。“落第“させてもらえないとなりますと通学することはできません。」と言ったのであった。

【メモ】
古い校舎のあった所は「お仮屋(かりや)」の跡。
お仮屋は、旧藩時代に、藩主が訪れたときに休息する家であり、“茶屋“とも言った。
旧藩主・内藤家所蔵の古地図には「茶屋」と記入されている。西側には「新茶屋」があるが、「お仮屋」が古くなったので、新築したとみられている。
明治26年に新築された校舎は188平方メートル(57坪)。児童は181人。
工費は2,850円、うち600円は方財町が負担。
校長は宮田竹次郎。建設協力者は高浜磯吉、塩月春治、高島新三郎、縫金治、高島源太郎の諸氏。

ここまでお読みいただきありがとうございました🙇🏻

余談ですが、日航ジャンボ機墜落事故の高浜雅己機長も生まれは方財です。ご遺族の方もいらっしゃいますが、故郷は忘れないで欲しいと思います。