翁の方財=ただいま94歳= 祖父島高重太郎を偲んで(1) | 行動派行政書士のチャレンジとつぶやき(医療・産業廃棄物・出入国在留許可(出入国管理)・建設業・農地法・土地利用・相続・民事法務等)

行動派行政書士のチャレンジとつぶやき(医療・産業廃棄物・出入国在留許可(出入国管理)・建設業・農地法・土地利用・相続・民事法務等)

医療経営コンサルタント、産業廃棄物、在留資格関連の行政手続きに精通した行政書士のつぶやき


翁の方財は、方財に生まれ一生自分の郷土を離れなかった私の祖父島高重太郎が自分の人生を振り返ってつづる「“翁の方財“ わが94歳の人生」は、小嶋政一郎著「方財島」のかゆいところに更に手を貸すもので、郷土の川や海浜や、一筋の小径、一木一草に至るまで昔を語るものの少なくなった今日では貴重なものになりました。




ただいま94才

明治26年(1893年)の5月13日の生まれだから、94歳を迎えた。
父は甚太郎で嘉永6年(1853年)の4月8日生、母・ムメは文久元年(1861年)の生まれであった。
生まれのは、東臼杵郡岡富村大字方財島であり、現在は延岡市方財町中区となっている。
父・甚太郎は、明治8年の4月20 日に旧陸軍の熊本鎮台常備軍に入隊しており、明治10 年の西南戦争に参加している。
「薩摩軍の攻撃は激しいもので、戦闘には苦労した」ということを話していた。どのような戦いぶりであったか、くわしく聞いておけばよかったと思っている。
明治12年11月20 日付で、賞勲局の三條実美総裁名で、金15円を受けている。それには
「陸軍兵卒・島高甚太郎」とあり、鹿児島軍との戦いに参加したことを書き、
「其の労不小候ニ付、金15円下賜候事」となっている。
明治28年10 月20 日に本家島高浅吉(兄)から分家している。私が長男で94歳、次男の今朝次郎は1歳のときに死去、三男の三治は60歳で永眠、長女は中村タツ(95歳で没)、次女の花田シマ(95歳で没)という家族であった。
幼年のころから「はやく学校に行きたい」ということで、明治33年4月に入学することになっていたが、“それまで待てない“と、入学を迎える前年の11月から学校に通った。
学校に行ってみると大島正一先生がおられ、優しく迎えてくださり、机と腰掛けをくださった。
大島正一先生は、延岡市中央通りの鶴亀屋呉服店主・小島勲さんの父である。
大島先生が、私の着席する机と腰掛けをくださったので、学校に行くのが当たり前のように思い、毎日登校することになった。

教室には黒板と大きなソロバンがあり、学者や努力した立派な人物を描いた壁掛けがぶら下げてあった。
壁掛けには、二宮尊徳先生、新井白石先生、貝原益軒先生、中江藤樹先生らの姿が描いてあったと覚えている。
教科書は、修身と国語読本、書方(習字)手本ぐらいでノートはなく、石盤に石墨で書いては消していた。
習字も1枚の紙に文字を重ねて書き、紙が真っ黒になるまで練習するようにしていた。
学校は、現在の公民館のところに建っており、そばに稲荷神社、大きな松の古木が2本と、竹やぶが続いていた。




古くなっていて、倒れた柱も3本あり、雨天のときには、雨漏りがひどく、教室が使えないので、「きょうは休み」ということもあった。

【メモ】
方財小学校
明治8年(1875年)御仮屋で学制による教育始まる。
学制は、明治5年7月に発布された日本最初の学校教育制度。
全国を8大学区に分け、1大学区を32中学区。1中学区を210小学区に分け、区ごとに1大学校、1中学校、1小学校を置くことにした。
小学校は明治19年に制定された学校令で、尋常小学校が4年、高等小学が4年、明治41年に尋常科6年、高等科は2年となった。

***
祖父の子供である私の母親は祖父を見て育っていれば、人の愚痴(悪口)を言ってはまわりの方々を仲違いさせることはなかったとの思いがまわりの方々を不孝にしていきました。
父親の一番仲の良かった下の弟は、仲違いしたまま兄弟は死に別れましたが、
私は父親の兄弟たちとの関係を修復しましたが、
叔父は言っていたそうです。
「方財の祖父が生きていたら兄貴とは仲直りできたものを」
残念でなりません。

ここまでお読みいただき誠にありがとうございました🙇🏻🙇🏻