【思い出】受験と転職 | 人生50年あとはおまけです

人生50年あとはおまけです

成人病オールスターズのおっさんが
書き残す終活日記。
2014年8月以降も生き残っていたら
なるべく続けます

受験や転職は人生の転機。

私にもそんな転機が何回かあった。

 

最初の転機は高校受験。

中学は公立に行き、いわゆる

青春を謳歌して過ごした。

初めてのたばこ

初めての交際

初めての喫茶店

 

塾にもいったけど、

いまだになんで行ったのか?

覚えていない。

なんとなく、塾に行くと

金八先生が見れない。

という記憶だけが残っている。

なので、

なんで塾に行ってたのかなぁ?

 

あと、誰かが

「おいM、今日から

数学Aクラスだよ」と

言われて、Aクラスに行ったけど

授業の後で先生から

「お前クラス間違えた?」

といわれてがっかりしたこと。

当時のAクラスは県内トップ高を

目指すクラス。

私はBクラス。

 

当時も今も、すぐ人を信じる

癖は変わらない。

 

模擬試験や夏期講習とかは

受けた覚えはない。

 

受験はなんとなく公立を選んだけど

度胸試しで受けた私立校に受かった

ので、そこで私の受験は終わり。

親からすれば、

「公立受けろよ!」と思ったのかも

知れないけど、何も言われず

そのまま私立校に行きました。

 

受験勉強らしき事もしてたと

思うが今も覚えているのは

 

やたら超難しい数学。

それも因数分解や方程式。

開成や灘などの超難関校の

過去問を集めた問題集ばかり

やっていた。

雑誌とかにある「超難問パズル」

みたいなもんかな。

あと、なぜか国語の近代文学史。

白樺派は誰か?とか

走れメロスはいつの作品か?

とかの超難問?

いわゆる教科書の

超小さいフォントで

書かれているコラム的な情報。

これはなんでなのか?

今でも不思議。

 

高校時代は最初の頃こそ、

普通の学生だったけど、

悪い友達やバイクにハマり

成績はどん底に。

勉強は全くしなかったなぁ。

 

停学くらったし、

出席日数もぎりぎり。

進路指導とかも全くなかった。

大学付属だったので、隣接の

学部に行こうか?ぐらいにしか

思ってなかった。

 

高3の夏休み。

母が勤務しているクリニックに

掃除のバイトに行ったときに

見た顕微鏡に魅了されて、

臨床検査技師、という仕事が

あることを知る。

ここの医師には、部活で切った

脚を縫ってもらったり、

アレルギー体質を治す注射?

を打ってもらったりと

多くの思い出がある。

 

で、いろいろ調べた結果

「女子が多い」

「一人暮らしができそうだ 」

「叔母が看護学校の先生している」

という理由で

幡谷にある(今はないです)

臨床検査技師の専門学校を

受験することにした。

 

受験なので、模擬試験とか

受けたけど、受験料もらって

RCサクセションコンサートに行ったり

原宿のブラックキャッツで

財布買ったりして

さぼってばかりだった。

 

受験科目は

3科目(数学、英語、化学)

だったかな?

 

無事に受かって通うのだが、

学校にたどり着くことは少なく

新宿でバイトしたり

パチンコしたりで、

ろくすっぽ通学しなかった。

 

これじゃいかんと

2年生になるときから

幡谷で下宿始めたが、

遊び癖は治ることなく

むしろ、朝まで遊べる、

ということで、

卒業までの3年間

(当時は3年制でした)は、

バイトと遊びであっというま

でした。

 

3年生になると病院実習が

始まり、

これだけはさぼらないで

通いました。

実習は楽しかったなぁ。

先輩技師さんたちとの出会い。

仕事が終わってから

いろいろなところに

連れて行ってもらいました。

飲み屋、喫茶店、野球、スケート。

 

実習が終わるころに技師長から

「あんたは○○行きなさい」と

言われ、なんの疑いもなく

推薦いただいた病院に就職。

技師長同志が仲良かったみたい。

一応、試験ありましたが、

色々と見えない力が

働いていたのかな?

と思います。

 

国家試験も無事に受かり

正式採用となって

病院にある男性独身寮に

転居。

寮費は¥4.000だったかな?

6畳一間でトイレ共同、風呂なし。

栄養士の先輩。

同期の歯科技工士、理学療法士

放射線技師。

ここから、楽しい楽しい

うかれぽんちな

日々が始まります。

 

この病院を受ける事が決まる前

父から

「ここ受けてみろ」と言われて

とある製薬会社受けました。

受験者は2人だけで、

結果は落選(ほかの表現あるかも)

コネだったろうに落ちたので、

相手との差が

相当あったのでしょう。

 

私には

これが初めての挫折体験でした。

 

父と母が慰めようとか、

地元で有名な

超高いフランス料理の

店に連れて行ってくれました。

これは今でも強い記憶として

残っています。

 

その後、結婚して

しばらくしてから

大学夜間学部に行ったり、

通信教育の統計講座を受講したり

カウンセリング系のカルチャースクール

通ったり、しましたが、

受験という意味での

挫折経験なく過ごしました。

 

最初の転職は新卒病院勤務から4年目。

出入りの試薬会社営業マンのお誘い。

 

ちょうど、病院検査技師の仕事も

わかってきて、

少しつまらなくなった頃

だったので、

すぐ話に乗りました。

 

当時は技師長の気持ちなど

慮ることもできずに

うかれてました。

結婚式の仲人は検査部長

主賓は技師長。

招待客の多くは病院関係者。

結婚して1年で辞めてしまう

事になんの罪悪感も感じなかった

のは、今でも反省しきりです。

 

転職した先は試薬会社。

営業の仕事は合っていたようで

ぼちぼちと新規契約も取れたり

顧客と仲良くなったりで

楽しい日々でした。

次の転職は4年後。

とある病院の技師長から

「うち来ない?」とお誘いが。

当時住んでいたところの状況や

家庭状況(子供が3歳)とか

いろいろあって、

お誘いを受ける事に。

 

ここから色々とあって

検査技師からIT系エンジニアに

スキルチェンジするのですが、

今でも思い返すのは

人との繋がりって大事だよなぁ。

ってこと。

 

病院3か所経験したのちに

ITベンチャーの立ち上げに参加し、

ストックオプションとかの資金で

ITコンサル会社立ち上げ。

顧客紹介から

電子カルテ立ち上げPM

として病院へ。

今に至る。

これらすべて人脈からの

紹介での転職です。

 

普通に真面目に

熱意をもって、正直に

仕事をしていれば、

報われる。

というのが

今までの人生経験で得た

私の結論です。

 

これは意識してできるものでは

ないかも知れません。

だから難しい。

だから重要な事。

 

一方、これらができないと

「普通の人」となる?

普通の人ってのは

印象に残らない人です。

話題にならない人。

記憶に残らない人。

 

こういった人とは

付き合ってもつまらんから

すぐに疎遠になる。

 

結果、人脈は広がらず

新しい出会いが

あったとしても

表面的で留まる。

 

非常に酷だが、

必要とされるか否か?

に集約されると思う。

 

必要か否か?は自分で

決めることはできません。

 

私はまもなく60歳。

必要とされる人でありたい。

という意識は持たずに

自然体で物事に真面目に

向き合って、正直に

残りの人生を過ごしたい。