青森中学 | 青森今昔物語

青森今昔物語

戦災により失われた青森市の記憶。

$青森今昔物語-青森中学校

 
 校舎は、まちの端れにあつて、しろいペンキで塗られ、すぐ裏は海峡に面したひらたい公園で、浪の音や松のざわめきが授業中でも聞えて来て、廊下も広く教室の天井も高くて、私はすべてにいい感じを受けたのだが、そこにゐる教師たちは私をひどく迫害したのである。

 私は入学式の日から、或る体操の教師にぶたれた。私が生意気だといふのであつた。この教師は入学試験のとき私の口答試問の係りであつたが、お父さんがなくなつてよく勉強もできなかつたらう、と私に情ふかい言葉をかけて呉れ、私もうなだれて見せたその人であつただけに、私のこころはいつそう傷つけられた。そののちも私は色んな教師にぶたれた。にやにやしてゐるとか、あくびをしたとか、さまざまな理由から罰せられた。授業中の私のあくびは大きいので職員室で評判である、とも言はれた。私はそんな莫迦げたことを話し合つてゐる職員室を、をかしく思つた。


 (太宰治 津軽)

 明治45年(1912年)6月1日青森市東部の合浦公園に県立青森中学校の校舎が落成しました。
 
 43年5月3日の青森大火では、市中心部県庁東側にあったことから被災を免れた青森中学でしたが、市内東部浪打地区にあった柳原遊郭街が市南部の旭町地区に移転することになり、この辺りの大地主であった、大坂金助代議士が、それに変わるものとして地域の学園都市化を計画、手始めに明治44年12月青森市立商業学校の移転に成功したことから、合浦公園前に移転することになります。

 大坂代議士の計画通り、大正2年9月には青森県師範学校も浪打地区に移転。以後この三校を中心に住宅地として、地域一帯は発展していくことになります。

 さて、大正12年4月その青森中学に入学した太宰治でしたが、紀行文「津軽」にもN君として登場する同級生中村貞次郎氏は「新編太宰治と青森のまち 」(北の会編 北の街社 1998年)のなかで次のように語っています。

 
 「その頃の青森中学校では成績の良い者が後の席で、よくない者が前列の机につくことになっていた。津島君は優等生の銀メダルを胸に、腕には黄色の、校章を型どった級長の印をつけていたので最後列におり、私は学校でも頭の悪さで有名だったので最前列にいた。

 授業が始まって間もなく、津島君が立って教室を出ようとしたら阿部君も立上った。驚いた先生(国語の丸山教師)が君達どうしたのだ、と問うと津島君が、先生の授業が面白くないから公園へ行つて寝て来ます と言ったものである。先生ばかりか、教室の一同呆気にとられている間に二人は出て行ってしまった。」

 学級崩壊は90年前からあったもようです。

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