世界航空路湊着水地 | 青森今昔物語

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戦災により失われた青森市の記憶。

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 大正3年(1914年)第一次世界大戦が勃発すると、飛行機は飛躍的に発達しました。

 航空機の持つ可能性を研究するアメリカ陸軍は、ダグラス社に対し世界一周飛行のための航空機の製作を命じました。ダグラスDWC(Duglas World Cruiser)と名付けられた4機の航空機は、1924年(大正13年)4月6日、シアトルを出発、途中アラスカで1機が脱落したものの、アリューシャン列島、千島列島を南下し5月22日5時30分択捉島ヒットカップ湾を離水、10時38分三戸郡湊村沖に着水しました。

 湊村には歓迎門が建てられ、「かつて三大節に日の丸の国旗を掲げたこともない軒端に迄米国旗が燦として輝いた。しかも之等の米旗は何れも新調したもので旗竿から新しい立派なもの……日米国旗に三ヶ村が彩られたことは此の地方では開闢以来の椿事である」(東奥日報大正13年5月21日)という市民の歓迎が見られました。

 世界一周飛行隊は2時間の休憩の後、霞ヶ浦を目指して八戸をあとにします。
 
 
 飛行隊はその後、中国-ベトナム-タイ-ミャンマー-インド-イラン-バルカン半島を経てパリ、ロンドン、グリーンランド経由でアメリカ東海岸のサンタモニカに凱旋。9月28日、出発地シアトルに着陸、全飛行日数175日という世界一周を完成させました。

 市民の大歓迎により迎えられた大正のアメリカ軍機でしたが、わずか20年後、1945年(昭和20年)7月には、予期すらしていなかったアメリカ軍機の襲来を、八戸市民は経験することになります。

 
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