青森凾館間に國有鐵道で船舶輸送を開始したのは、今から二十三年前の明治四十一年三月であります。
○ 初期(航路輸送開始から大正の初年に至るまで)
初期時代は旅客輸送が主で貨物としては上り方面は函館發の鹽乾魚及び魚肥の類、下り方面は弘前附近發の米、藁工品等が主要なるもので、其の輸送量も年間僅かに數萬噸又移動範圍も殆んど函館と東北及び關東地方の一部の間に限られ、北海道内と本州の其の他の地方との間の貨物は、前者は小樽又は室蘭港、後者は横濱、名古屋、大阪、神戸、新潟又は伏木港を經由して多く交通すると云ふ状態でありました。
○二期(歐州戰亂の勃發から貨車航送開始の頃まで)
大正三年歐州戰亂の勃發は我が國の事業界に一大衝動を與へ、諸工業の勃興船腹の不足等の關係から本州及び北海道間に發着する遠距離貨物が猛然として本航路に殺到し、大正五年に於て上り二十一萬噸下り十四萬噸と云ふ畫期的の輸送成績を擧げ、航路貨物交通史上に一新紀元を劃したのであります。
(昭和五年八月 青森凾館間航路貨物輸送の變遷 札幌鐵道局)
明治41年青函4時間のスピード運航でデビューした官営青函航路でしたが、競合相手の日本郵船が青函航路から撤退すると、比羅夫丸、田村丸の2隻では旅客需要に対応することが出来なくなります。明治43年1月から帝國海事協会が運営する帝國義勇艦隊梅ヶ香丸、44年1月からは大阪商船の會下山丸を傭船していましたが、大正3年(1914年)始まった第一次世界大戦の結果、世界的な船舶不足が生じ、国内輸送が鉄道輸送に振り向けられると、大正5年の上り貨物輸送量(207,281トン)は大正元年(59,649トン)に対して348パーセントの伸びとなりました。
激増する貨物輸送に、中小民間貨物船を動員することで乗り切っていた青函航路でしたが、大正13年には羽越線の全通により、関西方面からの貨物輸送も増大することが予測されました。
また、当時青函間を輸送される貨物は、青森、函館両港で、貨車⇒荷揚場⇒ハシケ⇒本船⇒ハシケ⇒荷揚場⇒貨車というように、すべてを人力に頼らざるを得ませんでした。
鉄道院はドイツ・ザスニッツ-スェーデン・トレレボリ間の鉄道貨車連絡船に注目、大正9年(1920年)9月2日、貨車航送用連絡船の新造を決定、大正11年浦賀造船所に2隻、翌12年三菱造船長崎造船所に2隻の発注を行いました。
第一船翔鳳丸は関東大震災に遭遇、工事に若干の遅れを生じ、大正13年(1924年)4月19日竣工。5月19日青森港に初入港、披露宴の後、21日から就航しました。
4隻の姉妹船は、昭和20年(1945年)7月14日、多くの乗員乗客とともにアメリカ海軍艦載機による空襲にあい、逃げまどいながら、すべて沈没します。
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