タイトルの「黒檀」は、その黒い外観と硬さが好まれ、高級家具に使われる広葉樹です。
植民地時代、象牙や黒人奴隷とともにアフリカから運び出された交易品の一つです。
黒人奴隷って……。
「黒檀」ググって、ちょっと引いてもた。
これは、人類の黒歴史やな。
ジャーナリストである著者は、その黒く輝く黒檀に、アフリカ人の力強く美しい姿を重ね、母国語であるポーランド語の黒檀を意味する「Heban(ヘバン)」というタイトルをつけました。
彼は、一九五八年からの四十年間に計八年、アフリカ大陸の各地に取材し、素晴らしいルポルタージュを書き上げました。
ルポルタージュは、あまり読んだことがないのですが、これが、上質の古典文学と並び称されるのも頷けます。
実際、何度もノーベル文学賞の候補にあがっています。
ガーナ、タンガニイカ(現タンガニア)、ウガンダ、ケニア、ザンジバル、ナイジェリア、モーリタニア、エチオピア、ルワンダ、スーダン、ソマリア、セネガル、リベリア、カメルーン、マリ、ナイジェリア、エリトリア、とアフリカ大陸を縦横無尽、神出鬼没に舞台を変えてのルポが収められています。
29編からなるルポは、どれもこれも上質で、まるで珠玉の連作短編集のようです。
でも、あくまでも、ルポルタージュ、ノンフィクションです。
現地取材の上で得たアフリカ社会の状況なのです。
そして、これが、めっぽうおもしろい。
前半は、まるで冒険小説。
マラリアには罹るわ、結核にもなるわ、コブラと闘うわ、砂漠でトラックはエンストするわ、自らクーデターの地に飛び込んでいく命知らずの冒険家のようで、えーっ、大丈夫と、思わず叫びそうになりました。
ほんと、半端じゃなく、身体張ってます。
この臨場感は、ほんまもんだからこそですね。
富裕層やヨーロッパ人がすむデラックスな地区を敢えて避け、自らアフリカ人地区、いわゆるヤバい地区に居を構え、取材を行ってきたからこそ、どの国も良くも悪くも現地の人々の生の姿が伝えられているのだと思います。
その上に、ヨーロッパ人(それも東欧に位置するポーランドという国籍も少なからず影響していると思われます)という外からの目線が加わることで、数々の問題点が、あぶりだされ、頁から目が離せなくなります。
例えば、クーデターにより突然、為政者となった者たちが、旧植民地時代のヨーロッパ人官吏さながらに、統治者として特権を享受するかたわら、市井の人々には氏族(クラン)の古き伝統に則って、二枚のシャツを持っていれば、一着を誰かにやり、一椀のめしがあれば、半分を誰かに分けるという掟が存続しているのです。「ぼくは、白人だ」(タンガニイカ編)
確かに、アフリカのような過酷な土地では、助け合わなければ、生き残れないのは必定です。
しかし、十分な食べ物があっても、旱魃が来たとたん、食品の価格が跳ね上がり、貧しい農民には手が出せません。
なのに支配者は、政府の体面が傷つくことを恐れ、国際社会に援助を求めるどころか国外からの援助を拒否します。「ラリベラ 一九七五年」(エチオピア編)
長期の戦争や、飢饉、疫病等により、年長者が亡くなることで、孤児となった子どもたちは、手っ取り早く食べるために軍隊へ入隊する。
技術の進歩がもたらした軽量短小の小型銃器は、子どもの手にピッタリのサイズで、子どもが子どもを殺せるようになります。「待ち伏せ」(ウガンダ編)
そんな思いもよらなかった事実を、次々と突きつけられるのです。
「ルワンダ講義」(ルワンダ編)では、悪名高きジェノサイド(集団殺戮)に至る過程が、まるで物語のように語られます。
ここでは、民族による色分けが、どれだけ危険であるかが実証されたのです。
そして、ルアンダ以上に驚いたのがリベリア編です。
「冷たき地獄」と名付けられたその項では、アメリカの綿花プランテーションの解放奴隷として入植した者たち(アメリコ・ライベリアン)、昨日までアメリカで奴隷だった彼らが、現地の人々を征服し支配したことが記されています。
これが、南アフリカのアパルトヘイトが始まる以前に、既にリベリアで行われていたことに絶句します。
その後のクーデター及び内戦の経緯が描かれているのですが、これが圧巻です。
この項だけでも、アフリカに対して、いかに自分が無知であったかを思い知らされます。
リベリアの首都:モンロヴィアに飛行機で到着早々、パスポート、リターン・チケット、予防接種の証明書まで奪われ、怪しげなホテルに転がり込むのですが、彼の部屋は、壁もベッドもテーブルも床も、亀のよう?に巨大なゴキブリに占領されています。
仕方なく、持参したリベリアについてのメモを取り出し、明日の外出に備えて予習するのですが、その予習に読者である私たちが、お付き合いすることで、リベリアの歴史を勉強するという入れ子になっていて、これまた小説っぽい構成です。
内容はというと、事実は小説より奇なり。
内戦につぐ内戦の繰り返しに、拷問シーン。
金と権力の亡者:ウォーロード(戦争貴族、戦争成金)たちが、「武器を持つものが最初に飯にありつく」とばかりに、国際援助物資を欲しいままに横取りし、餓えた人々に届くのは、ちょっぴり。
それでも、餓死寸前の人々にいくらかでも届くようにと、穀物や油を送らずにはいられない状況に、声もでません。
また、アフリカで国際紛争がほとんどないのは、このウォーロード同士が、利益をめぐって内戦を引き起こすため、弱体化した国家は、何とか命脈を保とうとして、国同士で連合や同盟を結成するためなのだそうです。
なんだかなぁ。
頁をめくればめくるほど、アフリカの痛々しい歴史に愕然とします。
そんな過酷な歴史が世界史に残らないのは、文書類がないのが原因の一つでもあるそうで、そもそも、文字として記録する伝統がなく、まず紙がないという事実も手伝っているようです。
それに、戦争やクーデターの絶えない現場で、記録など残そうものなら、スパイ容疑で投獄、もしくは銃殺されかねません。「あの人たちは、いまどこに?」(エチオピア/スーダン編)
そして、そんな黒い歴史の背後には、必ず植民地として支配していた西欧列強の影が。。。
その上、過酷な気候が重なって、彼らの知恵と経験は、こう教えます。
仕事はなるべく少なく、ゆっくりとやれ。
休みは長くとって、無理をするな。
貧弱な軀で、栄養不足で体力もない。
だから、仕事をするほどに体は弱り、マラリアや結核、その他百ほどもある熱帯病に罹り、発病者の半数は死亡する。「アブダラーロワ村の一日」(セネガル編)
ただ<生きる>ということが、かの地では、どれだけ大変なことか。
おまけに、砂漠地帯での貴重品である「陰」と「水」は、ふいと現れては、どこへともなく消えてしまう。
そんななか、現代のテクノロジーが与えた恵みがひとつあります。
ポリタンクです。
重くて壊れる甕と違って、軽くて安価で小さな子供でも、サイズを選べば水を運ぶことができます。「闇の中で立ち上がる」(エチオピア編)
貧弱すぎる贈り物です。
著者の問いかけは、アフリカのみならず、地球上の何億という人間に課された問題点に及びます。
彼らの内にある未利用のエネルギーをどう使うのか?
人類というひとつの家族におけるアフリカの人々の位置付けを迫ります。
正当な成員? 不当に扱われる同輩? 厄介な侵略者?「マダム・デュフ、バマコに帰る」(セネガル/マリ編)
突き付けられたこの問いに、さて、私たちは、どう応えるのでしょう。
さらに、コロナのワクチン問題も加わった今、この危機を乗り越えることができるのでしょうか。
天国で、著者と訳者が二人並んで、心配そうに見つめているのが目に見えるようです。
日も暮れて暗くなると、集まっていた人々は、会合を切り上げ、三三五五、家路につく。暗闇で言い争いはできない。議論とは、話し相手の顔がみえること、その人の口からでる言葉と目の語ることが同じであることがわかること、それが必要だ。 「木陰にてアフリカを顧みる」
エボニー(黒檀)もアイボリー(象牙)も、アフリカから搾取した資源であることを思うと微妙やけど、やっぱりいい歌だと思います。