アール・ブリュット  エミリー・シャンプノワ | 青子の本棚

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「すぐれた作家は、高いところに小さな窓をもつその世界をわたしたちが覗きみることができるように、物語を書いてくれる。そういう作品は読者が背伸びしつつ中を覗くことを可能にしてくれる椅子のようなものだ。」  藤本和子
  ☆椅子にのぼって世界を覗こう。

アール・ブリュット (文庫クセジュ)/白水社
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フランス語で「生の芸術」を意味する「アール・ブリュット」って何?

「はじめに」の冒頭で掲げられているのは、ジャン・デュビュッフェの「定義する必要はない。アール・ブリュットが何であるかは、誰もがよく知っているのだから」という言葉。

身も蓋もない答え。
まさに、「クセジュ(我、何をか知る)」。
ちょっとヤバい本借りてもた?目汗

どうも初期の頃は、限られた専門家たち、ごく少数の特権的な愛好家に保護され、個人の所有物として、外にでることはなかったので、こんな言葉がでたらしいです。

で、もう少し、素人的に歩み寄って言うと、<芸術文化の影響を受けていない人が作った作品>。


隔離された精神病患者の無垢な衝動から生まれ、既存の芸術の影響をまったく受けずに、原始的な情熱を持つ、意外性に満ちた作品が、発見されたのが始まりだそうです。

もちろん、隔離されたり、妄想に取り憑かれたりすることが必要条件ではないし、また反対に、そうであっても誰もがアール・ブリュットの作家になれるわけでもありません。

しかし、その純粋概念に着目し、既存の芸術から離れた今までにない、新たな作品を見いだした人たちがいたということです。


アール・ブリュットかそうでないかの境界線を見定めるために、アンリ・ルソーを例に説明している箇所があるのですが、彼は「アール・ナイフ(素朴派の芸術)」であって、アール・ブリュットではないとされています。
なぜなら、彼が使ったイーゼル、キャンバス、油絵具と筆という素材は、型にはまっていると見なされるからです。

で、私が思い出したのは、ちぎり絵の山下清。
んー、ちょっとポピュラーすぎるかな。 

前述のデュビュッフェによると、アール・ブリュットの性質として、商業的な価値を持ってはならないとされているそうで、そうなるとOUT!だな。

実際、初期のアール・ブリュットの作品は、貨幣ではなく、物と交換されたそうです。
赤い靴だとか、車自動車とか、テレビカラーテレビや、楽器(チェロ、ギター、電子ピアノ)など。

でも、現代は、芸術作品には、金銭的お金な価値が付されて、初めて社会の中で認められるという世の中です。
それは、作家本人が望むものではなく、作品を商品として利益を上げようとする商人のせいなんだけど、世間に知らしめようとすると、どうしても、貨幣価値が絡んでくるのですね。
難しいなぁ。


イマイチ理解できないまま読み進めると、半分を過ぎたところで、やっと知ってる名前が登場しました。

フェルディナン・シュバル。叫び
一人で、コツコツ、理想宮を作り上げた元郵便配達員。


そうか、なるほど、あれが、アール・ブリュットか。
やっと、すこーし理解できました。


「まとめ」の締めで、紹介されたアンドレ・ブルトンの『シュルレアリスム宣言』に出てくるアルフォンス・アレーの踊り子の話が、かなり怖いです。
それ以上望んではいけないハートブレイクものが世の中にはあるのでしょう。


アール・ブリュットは、やむにやまれぬ一人の人間の衝動によって制作されたがゆえに、そこには、少なからず狂気が含まれています。
狂気は、ルールや常識を軽々と超えてみせます。
それが、見る者の心をざわつかせるのでしょうか。

んー、ようわからん。ガックリ
でも、シュヴァルの理想宮、けっして嫌いではないのですよ。




本 自由は、他者との隔絶、あるいは常識はずれの想像の中にしか見いだされないのである。