夜と霧 新版  ヴィクトール・E・フランクル | 青子の本棚

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「すぐれた作家は、高いところに小さな窓をもつその世界をわたしたちが覗きみることができるように、物語を書いてくれる。そういう作品は読者が背伸びしつつ中を覗くことを可能にしてくれる椅子のようなものだ。」  藤本和子
  ☆椅子にのぼって世界を覗こう。

夜と霧 新版/みすず書房
¥1,575
Amazon.co.jp


ずっとずっと読みたかった本。
やっと読めました。チョキ



年末に図書館に予約しました。
「旧版」も「新版」も全部借り出されていて、あぁ、今年もムリかと思っていました。
でも、とりあえずポチっ。


予想に反して、図書館が閉まる前に、「ご予約の本、用意できました」のメールが届きました。


運命のキラキラ僥倖。




何故か私は、途中で投げ出したくなるような惨い描写なのだと思い込んでいました。あせる


ところが、静かに語られる内容は、確かに酷い惨状ではあるのだけれど、あまりにも淡々としていて、気合を入れて臨んだ私でしたが、肩透かしをくったようで、どうしてこの本にこんなに怯えていたのかが不思議なくらいでした。


いや、違う意味では、より強烈なんですがね。




そこには、どこか肉体を遊離して、例えば天井の一角から自分を眺めてでもいるような科学者の監察日誌の趣きがありました。

しかし、冷静に綴られているからといって、その怖さが消えてなくなるものでもありません。



貼り付けた付箋の数に比例するように、ページを追うごとに深く心に突き刺さってくる文字たち。

突き放したように語られるその過酷な状況の中、強さと弱さが絡み合ってでできている人間という不思議なイキモノに目を見張りました。

特に後半の「生きる」という意味についての哲学的な考察は、自らの強制収容所での実体験を踏まえたうえであるという事実の重みゆえに、ずしりと重いバトンを手渡されたような気がしました。




<生きる目的を見出せず、生きる内実を失い、生きていてもなにもならないと考え、自分が存在することの意味をなくし、頑張りぬく意味を見失った>そんな極限状況で、どうやって迫り来る「死」に立ち向かうのか。


「苦しむ」代償に得られるのは、ほんの少しの延命かもしれないときに、どうして「生き続ける」ことを選ぶのか。



涙し、号泣しつつも「苦しみ尽くす」ところまでやってのけたかとの問いに、<涙は、苦しむ勇気をもっていることの証>であり、けっして恥ずべきことではないという言葉に、比べものにならないくらいの生ぬるい現実の中で、不平不満だらけで生きている自分に、強烈なボディブローグーをくらった思いでした。



人はそれぞれ全宇宙にたった一度ふたつとない運命を引き当てる。
それは、その人だけの運命であり、他の誰に代わりに引き受けてもらうわけにはいかない。
ならばどうやって、その運命と闘うのか。



本

自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。



<ひとりひとりの人間に備わっているかけがえのなさ>に気づいたとき、人はほとんどあらゆることに耐えられるといいます。
そして、「過去の充実した生活のなか、豊かな経験のなかで実現した心の宝物」は、誰にも奪うことができないということ。
何もかも剥ぎ取られ、名前さえも奪われ、文字通り身一つである強制収容所のなかで、人が持つことのできるものは限られています。
ささやかな思い出が、現実を支える重要なアイテムであるのだという”気づき”が、人に闘う勇気を与えてくれると言うのです。




心理学者である著者ゆえに、自ら非観察者と観察者の二役をこなしながら得られた貴重な報告書です。



そして、最後に添えられた解放後の収容所の所長であった良心的な親衛隊員(SS)のエピソードで、人の本質は負わされた役目で判断すべきではないという見解も、異常事態におかれた人が正常ではおられないことは、けっして異常ではないという言葉とともに、深く深く心に沁みた読書でした。




不平やら不満やら不安やら意に染まない出来事ばかりと嘆く日々のなか、新年早々貴重な本に巡り合えて、今年の私の読書運は既に当たり恋の矢アップのようです。


本年もどうぞよろしくお願いいたします。





本

「強制収容所ではたいていの人が、今にみていろ、わたしの真価を発揮できるときがくる、と信じていた」
 けれども現実には、人間の真価は収容所生活でこそ発揮されたのだ。おびただしい被収容者のように無気力にその日その日をやり過ごしたか、あるいは、ごく少数の人びとのように内面的な勝利をかちえたか、ということに。




真価を発揮するのは、いつかではなく、まさに、去年の流行語王冠1「今でしょ!」なのですね。